六華だより

生きる、思う、そして抗わず

第94号

森吉 亮江(南43期)

 一歩ごとに、というのは大げさかもしれないが、日々どれだけのことを感じたり、思ったりしているのかと思う。炭酸の泡がプチプチ弾けるようにそれらは次々と記憶から姿を消していくが、強烈に爪痕を残すものもある。恐らくそれは自分の性質や興味、欲望などと化学反応を起こした時に生まれ出る、“気づきの火花”なのだろう。

 生まれた時から人見知りだったという私が今“ピアニスト”という人前に出る職業を選択しているのは不思議なことだ。先生からの呼びかけにエレクトーン下で身を潜めて、いないふりをしながらも通っていた音楽教室についていけるように、ご近所の先生にピアノを習い始める。それが5歳、ピアノ道の始点である。

 物心ついた時から私は考古学分野に強い興味を抱いていたようで、庭を掘ったら出てきた小さな白い貝殻を化石だ!と喜ぶ幼児であり、念願叶って買ってもらった初めての本は恐竜の図鑑だった。音楽の道より合っていたのではと未だに言われることもあるが、趣味として向き合っている方が心安らかに楽しめるものだ。

 20代半ばで私はベルギーという、どこのどんな国なのかも知らなかった国に行くことになる。行先はおろか留学自体も青天の霹靂で、何の予定もなく出場したコンクールで海外派遣奨学金を頂いたことを機に、川に流されるように出国したのは受賞から2か月後のことだった。(奨学金授与=留学義務という規定は受賞後に知る。)ビザ発給はほぼ渡航日、住むところの当てもなければ、知り合いもいない、学校を見たこともなければ、知っている教授もいない、おまけに語学の準備もなかったので、今だから笑える事態多発だった。後に、今時そんな留学の仕方をする人はいないと言われたが、当時はそんなもんだろうという無知な飛び込みスタイルだった。結論としてはそれでも行けて本当によかった、という強い実感と感謝だ。実はこの2年前にはこの分野から足を洗って、先述の考古学分野に転身しようと本気で考えていたのだから、人生分からないと心底思った。

 留学生活は予定外にも6年半に及ぶ。初めの3年は、ヨーロッパに残って仕事ができたらとなんとなく思っていたのが、4年を過ぎてすっかり日常支障なく過ごせるようになってくると、逆に、どんなに慣れても馴染んでも私はここでは死ぬまで外国人なんだということが理解できてきて、卒業する頃には、一生を終える時はやっぱり日本がいいなと迷いなくすんなり帰国を選ぶことになる。

 将来を漠然と考えていた時、前世リーディングというものを試したことがあるのだが、私の過去世だというその中身はそっくりそのまま私の興味遍歴で、とにかく驚いた。そして、客観的に見て気が付いた。それらは無意味で節操のない好奇心の連発ではなく、全て同じラインで繋がっていて、ある一点に向いているのだと。腑に落ちた瞬間だった。前世論云々はともかく、それがきっかけとなって自分を知ることに意識が向き始める。

 時々、自分がなぜ音楽家をしているのか、どういう音楽家でありたいのか、どう生きたいのか、自問する。私は作曲家のように無から生み出すのではなく、既に存在する楽曲を演奏するのが専門の“演奏家”である。その使命は、楽譜を読んで思うがままに弾くのではなく、その曲の原型、つまり作曲者の頭の中で流れている完成イメージを再現することにある。そもそも現代曲でない限り作曲者はお亡くなりになっているので、実際のところどうなのかと訊ね確認することができない。そこで、作曲者を一人の人として研究し、こういう人ならこう感じたのではないか、この時代ならこういう奏法になるのではないか、この表示はこの人の場合こういう意味ではないか、という具合に、あくまでも推察の域を出ることはできないが、再現演奏に努めるのが演奏家の仕事である。昔のものを掘り起こし、磨き、元の姿を知りたい、という欲求は考古学ととてもよく似ていると思う。演奏家には、演奏技術や音楽性はもちろんだが、推理小説並みの推理力や想像力、時にはマニアックな学術的研究も大切で、それは私の好奇心を大変刺激する。幼少期から愛読書が推理小説とファンタジーである私にとっては、なおさら魅力的なわけである。

 少々話はずれるが、私がベルギーに渡ったのはちょうどユーロ経済圏施行の前年で、ベルギーフランとユーロ通貨を両方経験した。渡航当時はまだ物価が低く、お店は17時閉店、日曜はお休み、もちろんコンビニ無し、スーパーには御惣菜もなく、なによりお店に並ぶ商品の種類がものすごく少ないことに軽くカルチャーショックを受けた。当初よく利用した小さなお店ではシャンプーが3種類くらいしかなく、おまけに男女共用のような感じで、自分が使っているのは本当にシャンプーなのかと疑ってしまうぐらいだったが、帰国する頃にはユーロ効果による流通拡大で陳列棚は至極カラフルになり、もっと早くにこうなってくれていたら、と思う反面、選択肢がそんなになくても生きることに支障はない、むしろその方が純粋な生き方ができるように思えて、“生きる”を考える一つのきっかけになった。

 ヨーロッパの人々は、生きるということに非常にシンプルだと思う。食べるものも楽しむものも適度な加減が伝統的に保たれている印象を受ける。私は色々と豊かすぎる日本で育ったので、ついつい色々なものを見比べたくなるが、無ければ無いで済むということを忘れがちになると不必要な葛藤や欲、雑念が生じてよろしくない。純粋な“生きる”を知っている人は心がバタバタしない、というのが私の見解である。

 学生を卒業し、教授から「今日からは同僚だよ」と言われ社会人になった時にはもう30歳を超えていた。私はそこから音楽家としての自己確立について模索し始めるのだが、演奏ステージが徐々にベルトコンベアー風に“こなし続ける”感覚になってきて、ついには心身が疲労困憊してしまう。そこでようやく自分のしていることと本質との非整合性に気が付いたのだった。

 ある時、圧倒的な才能に遭遇して嘔吐したことがある。衝撃を受けるとこうなるのかと、自分でも信じられない経験だった。そして思った。私には何ができるのだろうか、と。

 ところで、“仕事”の語源は“する事、すべき事”、すなわち生きるために働くことという意味から後に職業をも指す言葉になったそうだが、どんなに些細なことでもそれが誰かの求めと合致して初めて“仕事”として全うすると私は思っている。現実的な話になるが、クラシックの演奏家稼業についてその対価は現状かなり低い。残念ながら演奏から何かを寄与されている実感が乏しいからなのだろうが、演奏家からすると、見えないところ(ステージ外)で準備に費やす労力や時間、向上への絶え間ない研究、またプロになるまでの教育投資額はかなりのものなのにとつい愚痴りたくもなる。つまり、これはマニアックで職人気質で人を喜ばせるのが好きな人に向いている職業だと思う。

 100人いれば100の人生がある。生きるということを難しく考える必要はないと思うが、生きていく上で自己認知は重要だと思う。しかし、自分という人間を知るということはとても難しく、また、その存在を社会の中で捉えていくのはさらに難しい。もし自分を理解し受け入れられたら本質的な自己欲求と能力が自然に歩み寄り合流し、自分としての自然な生き方が見えてくると思っている。自分を取り巻く全ては自分を知るための大切な材料であり、興味が共鳴する物事をはじめ様々な経験との遭遇を重ね、それを客観的に見直しながら自覚していくことによって、自己分析は精密化されていく。かくして人間の密度は徐々に濃く、焦点が合っていくように思えてならない。

 そして、私の合流点は、誰かのために演奏していくこと、だと思っている。

森吉亮江プロフィール

東京藝術大学音楽学部ピアノ専攻卒業。
HIMES海外派遣コンクール優勝により海外研修奨学金を与えられ渡欧、ブリュッセル王立音楽院修士課程ピアノ科及び室内楽科をグランドディスティンクションにて首席修了。
フランダース政府給費留学生。
ソリスト及び室内楽奏者として多岐に亘る演奏活動を行いながら様々なアーティストのコンサートプロデュースも手掛け、音楽の本質とそのイフェクトについて考究している。