六華だより

六華だより 100号の歩み その1=1~10号

第100号

 六華同窓会の会報誌「六華だより」が今号で100号となりました。1972年(昭和47年)の創刊時はB5判でしたが、A4判を経て、現在はWEB上で年2回、新たな記事を公開しています。母校と同窓会、同窓生の歩みを、過去の記事をひも解きつつ、振り返ってみようと思います。

会報発行委員会

 

創刊号

 六華だよりの創刊は1972年(昭和47年)。725日を発行日としてB56ページの冊子が制作されました。当時の同窓会長は佐藤貢氏(中20)。1898年(明治31年)に札幌で生まれ、札幌第一中学校、北海道帝国大学農学部、米オハイオ州立大学で学び、北海道の酪農の基礎を築くとともに、雪印乳業の初代社長を務め、酪農学園大学長を歴任するなど、1999年に逝去するまで、北海道の経済と文化の発展に尽力しました。

創刊号1ページ目には佐藤会長が「創刊号の発行にあたって」を記しています。六華同窓会の結束が1965年の創立70周年に向けた寄付活動で高まったこと、さらに同窓会の名簿を整備するとともに同窓会費を集め、会報発行の決議となったと経緯を紹介。「在校生に伝統を守り、誇りを持たせるには同窓会の結束と隆昌が緊要である」と訴えています。

「六華だより」の創刊号 題字も当時の六華同窓会長、佐藤貢氏の筆によるものです

 

 創刊号の最終ページには、1019日の第78回総会の案内があり、1972年(昭和47年)1225日発行の第2号で開催報告が掲載されています。奇数号で出席を呼びかけ、偶数号に報告を載せるスタイルはこの後も引き継がれていきます。

 

同姓同名・雪戦会

 1973年(昭和48年)1220日発行の第4号には「同姓同名」という寄稿があります。執筆は赤塚不二夫さん(定8期)。東京で音響効果を担う会社を経営している旨を記し、昭和を代表する漫画家と同じ名前であることから「よく間違えられています。漫画家の赤塚氏とは同姓の誼から、多少の交際はございます」とつづっています。

 この号には、「雪中騎馬観戦の記」も掲載されています。一中時代の伝統行事であった雪戦会を同年2月、当時の生徒会が雪上騎馬戦として復活させたものです。29年ぶりの復活とあって最初は参加者も審判にも戸惑いが見られましたが、「回を追って熱気漲り、思わずはっとする場面や、ぽかり鉄拳のお見舞いなどもあって、流石若者同士のぶつかり合いであるとうなずかれた」と振り返っています。

 

発刊第10回記念号

 1977年(昭和52年)310日、六華だより第10号が「発刊第10回記念号」として発行されました。B524ページもの大作です。

 記事の一つが「山田幸太郎先生顕彰事業を終えて」。1908年(明治41年)から1937年(昭和12年)まで29年間、札幌中学校・札幌第一中学校の校長として多数の同窓生を育てた北海道を代表する教育者です。1975年(昭和50年)の総会で、同年迎えた創立80周年を記念する事業として山田先生の顕彰石碑の建立が決定。山田先生の発意で設けられた学校林内とし、翌年7610月に除幕式が行われました。

学校敷地内に建つブロンズの胸像「山田幸太郎先生之像」にも、作者名や経緯を記した銅板が埋め込まれました。山田先生の校長在職25周年を記念し1933年(昭和8年)、彫刻家の諏訪頼雄氏(中18期、作家名:諏訪与里於)が制作しましたが、戦中の金属回収令で供出され、現在は1950年(昭和25年)に同じ作者の手による二代目が、母校正門の左手で登下校の生徒たちを見守っています。

 なお、六華だより編集委員会は第10号を機に設けられました。初代委員長は北海道新聞室蘭支社長などを務めた麻生勝郎氏(中33期)。編集後記には、9号までは「ほとんど南校の先生方(主として同窓生)に依存して参った」としたうえで、新たに8人の編集委員が選ばれたこと、広く原稿を寄せてほしい旨が書かれています。