六華だより

横田滋君の無念の死を悼む

第97号

大塚健一(南1期)

 6月6日午後、横田滋君の奥様、早紀江様より電話がありました。「たいへん長い間、お世話になり、ご心配をかけましたが、夫、滋が昨日5日、家族に見守られながら、静かに天国へと引き上げられていきました」。気が動転して、言葉が出ませんでした。少しずつ弱っていく横田君の耳元で奥様は「必ず、めぐみを取り戻すから」と何度も伝えたそうです。

 横田滋君のご逝去に、心から哀悼の意を捧げます。

 2カ月を経過して、奥様からお手紙をいただきました。新型コロナウイルスの影響を考え、教会葬としてささやかながらも温かく、お送りしたそうです。「北朝鮮に日本人が拉致された、一つの歴史として残して良いかもしれませんが、もうこんなことは二度と誰にも起きないよう、解決して置かなくてはなりません。頑張ってみます!!」。夫を失い、ご子息2人と一緒に苦難に立ち向かう強い覚悟が偲ばれます。手紙には追悼写真集「祈り-忘れるな 拉致-」が同封されていました。発行元の新潟日報に電話して追加で取り寄せ、ともに救出運動に協力した級友に送りました。

 横田君と初めて出会ったのは終戦の前年、昭和19年(1944年)、幌南国民学校(幌南小学校)6年のとき。父親の転勤で引っ越してきた彼とは、席も近く、よく話をしました。当時、6年生は男女それぞれ1学級ずつ。男子は68人、女子は70人でしたが、食べるものも乏しく、戦時中のつらい時期でした。
 翌昭和20年(1945年)、共に旧制札幌第一中学校に入学しました。戦時中で、軍隊と同じように整列、敬礼、行進、射撃練習など、教官に鞭で叩かれ、厳しい教練に緊張の連続でした。先輩も伝統の「雪戦会」を意識してか、1年生を講堂に集め校歌斉唱、第一、第二応援歌、優勝歌など「声が小さい、元気がない、始めからやり直し!」と発破をかけられる日々。食糧難の時代、援農も泊まり込みで何日も続きました。楽しかったのは野幌原始林での全校生でのウサギ狩り。網に追い込んで捕らえ、ウサギ汁をみんなで美味しく食べたことです。
 8月15日、終戦。物資不足に苦しみながらも、自由と夢を持てるようになりました。洋画の中で見せつけられた絢爛たる外国に、羨望を感じたものです。
 学制改革で新制高校「札幌第一高等学校」となった後の昭和24年、市立第二高校の廃止で400人もの転校生が加わり、1学年13クラス(1学級60人超)のマンモス校となりました。高校3年時の昭和25年には札幌市内の公立高校4校~男子校の一高と二高、女子校の道立女子高と市立一高~の生徒が男女共学の札幌南、札幌西、札幌北、札幌東高校に振り分けられ、仲良くしていた友人もどの学校に行ったのか判らなくなりました。
 横田君と僕は、共に南高の3年5組となりました。夏ごろ「せせらぎ」の題名で発行されたクラス雑誌に、全員の人物評が記されています。横田君は「非常におとなしいが、誰にでも好かれる性格、勉強家でスポーツの方も仲々の達人」。彼の父は横田庄八先生。昭和19年から32年まで、一中、一高、南高で国語の教鞭を振るっていました。僕は、バドミントンに熱中している様子が書かれ、戦後のまったく新しいスポーツで、「はねつき遊び」のように思われていたのですが、とにかく強くなりたいと頑張りました。3年になる春休みに金沢市での「日本選手権」に出場し、夏には名古屋市での国民体育大会の高校男子の部に参加。全国優勝した4人チームの1人であったことが喜びです。

 卒業後、横田君は日本銀行札幌支店へ入行し、僕は叔父の会社、小原商店に勤務しました。その後、彼は全国各地を転勤、僕は20年後に独立し、今も会長を務める会社を立ち上げましたが、お互い仕事に追われながらも、時々、クラス会で会い、手紙のやりとりも続けていました。

 彼と初めて出会って半世紀となった平成7年(1995年)、幌南小学校卒業50周年を祝うクラス会を開き、翌年、女子も合流。還暦を過ぎた今こそ、戦争中で満足にできなかった「修学旅行」を楽しもうと、横田君に関東方面の幹事をお願いしました。平成9年(1997年)5月、伊豆、箱根2泊3日の「修学旅行」に札幌18名、関東14名の計32人が参加。何十年も会っていない人が多く、初日の西伊豆のホテルでの宴会で自己紹介と近況報告をしてもらいました。横田君の番が来ました。「皆さん、新潟で、13歳の女子中学生が、下校途中に、突然行方不明になった出来事をご存知でしょうか。私の娘、横田めぐみです」。一同、絶句しました。なぜ今まで言ってもらえなかったのか。夕食もほどほどに幹事部屋に集まり、横田君から詳しく話を聞きました。

 昭和52年(1977年)11月、新潟市内で、中学1年生だっためぐみさんが、帰宅途中に消息を絶ちました。家族、知人総出で学校、海岸、彼女の立ち寄りそうな場所を探しましたが、見つかりませんでした。バドミントンの部活動の後、午後6時半ごろ、家まであと200mといういつもの通学路の交差点で、友人と「バイバイ」と別れたそうです。海岸の林の中や防波堤の波打ち際など、来る日も来る日も「めぐみ!めぐみちゃん!!」と大声で叫びながら探し求めた横田君やご家族の苦しみは想像がつきません。

 平成9年(1997年)1月、救う会(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)の前身組織「横田めぐみさん拉致究明救出発起人会」が発足。横田君は、名前を出すことで、めぐみさんに災難がふりかかることを心配しつつも、自分の娘が北朝鮮に拉致されたと名乗り出たのです。横田君の勇気ある決断に、他の被害者家族も実名を公表。「拉致被害者家族連絡会」が発足しました。

 「それでも、政府もマスコミも、まだ本格的には協力してくれません。残念ですが、これが現状です」。横田君の話に耳を傾けているうちに、いつの間にか朝になっていました。「僕たちの何か手助けできることはないか」。小学時代のクラスメイトを中心に、署名と募金活動を始めました。皆で一生懸命3,800名の署名を集め、6月18日、横田君に送りました。

 横田君は拉致被害者家族会の初代代表となり、ご夫婦で全国を回り、拉致問題を訴えました。平成11年(1999年)5月2日、東京の日比谷公会堂で「救う会」の2,000人が集合。6月5日は「北海道拉致被害者を救う会」の招きで、西区民センターで横田君の講演会が開かれ、翌6日は三越札幌店の角で、共に署名と街頭募金を行いました。その後も署名活動を続け、僕は会社のお取引先や親戚、友人など100カ所くらいに、協力をお願いしました。横田君の苦しみを広く道内の人に知ってもらおうと新聞社や放送局も回りました。当時はなかなか取り上げてもらえず、悔しい思いもしましたが、幌南小のクラス会でこの年、12月15日までに署名32,007人、募金24万3千円を集め、東京の「救う会」事務局本部にお渡ししました。
 平成14年(2002年)9月17日、小泉純一郎首相が訪朝し、北朝鮮に拉致があったと認めさせ、謝罪させました。生存していたとされた5名は10月15日に帰国を果たしましたが、横田めぐみさん他8名は死亡したとの不誠実な答えのみでした。横田君の失望はいかばかりだったでしょうか。

 北朝鮮は、横田めぐみさんは死亡したと言いました。しかし、横田君は成人しためぐみさんの写真を手にし、「めぐみは生きている」と確信していました。2014年にはウランバートルを訪問、めぐみさんの娘のウンギョンさんと、ウンギョンさんの10カ月の娘さんを抱きしめました。横田君は、うれしさを感じながらも、めぐみさんに会えないままいたずらに流れる年月のむなしさに、胸が締め付けられたことと思われてなりません。

 今年4月27日、奥様からお手紙をいただきました。歩行も言葉も思うようにはならないものの、意識は明瞭でリハビリに励んでいるとのことでした。「『娘と再会する迄はガンバル!!』と表現しています」。それなのに、こんなに早くお別れの日を迎えるとは思いませんでした。

 ブルーリボンバッジは、拉致被害者の救出を訴える活動の象徴として、多くの国会議員が身につけていますが、着用するのであれば、体を張って、拉致問題と向き合ってほしいのです。「愛しい横田めぐみさん」を返してほしいという、人生をかけた横田君の願いを、奥様の早紀江様のためにかなえてほしい。時間がないのです。安倍晋三前首相がなしえなかった拉致問題の解決を、新内閣が総力を挙げて実現してくださいますよう、心からお願いいたします。


大塚健一(おおつか けんいち)

1932年(昭和7年)5月生まれ。

1945年(昭和20年)、札幌第一中学校に入学、1951年(昭和26年)、札幌南高校を卒業し(株)小原商店に入社。1970年(昭和45年)、株式会社オーツカ設立。

現在、代表取締役会長。