六華だより

留学1週間前なのでジャズを始めてからの10年間を振り返る

第105号

村越 葵(南74期)

 六華同窓会の皆様初めまして。あるいはお久しぶりです。南74期卒業生、ジャズサックス奏者の村越葵と申します。
 今年2024年の3月に札南を卒業し、4月にデビューアルバム「BiCOLORE.」 (ビコロール)をリリースして半年が経ちました。リリース当日に始まったレコ発ライブ全国ツアーは先日8月8日に千秋楽を迎え、今は9月に控えたアメリカのボストンにあるバークリー音楽大学への入学準備を進めつつ、こちらの原稿を書いております。執筆のお声がけをいただき、皆様に活動を知っていただくと同時に、自分自身でも留学前に今までを振り返る良い機会と思い、受けさせていただきました。
 今日は私の今までの音楽活動、留学やプロデビュー、これからのことについて書かせていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 私は小学3年生、警察官である父の転勤で倶知安町に引っ越した最初の夏にジャズと出会いました。初めて聞いたジャズは、地元の夏祭りでの、羊蹄山麓に住む小中学生で編成されたジャズスクールによる演奏でした。同年代の子達が演奏しているのをみて興味を持ち、その秋からアルトサックスで参加することにしました。

羊蹄山麓の小中学生で構成された”Mt.Yotei Jr.Jazz School”所属時


 楽器を演奏することやメンバーと演奏する楽しさがすっかり気に入った私は、札幌に引っ越してからも札幌のジャズスクールに所属しました。札幌には多くのジャズクラブや大きなジャズフェスがあり、ライブに行ったりセッションに参加したりすることで実際にジャズの現場で繰り広げられる奏者間の音のやりとりを学ぶことができました。顔見知りのミュージシャンも増え、ジャズスクール外にも自分の音楽活動の場が徐々に形成され始めました。また、札幌のジャズスクールで知り合ったメンバーで結成した、”snack time”という4人組のバンドでの音楽活動も始めました。

札幌ジュニアジャズスクール中学生クラス“Club SJF”所属時

snack time live

 中学3年生になり、高校の進路を決める時期。私は幼少の頃から警察官になりたいと思っており、高校も大学もそれを見据えて選ぶつもりでした。しかしこの頃には「ジャズミュージシャンになりたいかもしれない」という気持ちが芽生えていました。結局私は3年後の自分に判断を委ね、
「選択肢を広くしておきたい。」
「ここに来る人たちに会ってみたい。」
という思いで札幌南高校を選びました。
 高校生になって、音楽活動の内容は大きく変わりました。ジャズスクールには高校生クラスがないため、完全に自分で活動していくことになります。幸いご縁に恵まれ、札幌のジャズクラブなどでライブに出演させていただく機会をいただけるようになりました。演奏する曲の幅が増えたことに伴い聴く音楽の幅も広がり、自分の演奏や技術を見直すようになりました。
 音楽活動を理由に学校を休むことがあっても、学校からは出席日数の確認をされる程度で特に咎められることはありませんでした。それどころか応援の言葉をかけてくださったり、ライブに来てくださる先生もいました。また、札南の友人達は各々自分の世界を持っている人が多く、これが面白いだとか、興味があるだとか、自分とは全然違う世界の話を聞くことで刺激を受け、モチベーションを保つこともできて、充実した学校生活でした。
 私が初めて自分のリーダーライブをした際、宮澤校長先生や1年時の担任だった野沢先生がお越しくださいました。そのライブ本番のMC中、メンバーの1人が、私の1つ年上のサックス奏者の話題を出して
「彼女を追いかけて頑張ってね。」
と私に言いました。話題に出たサックス奏者は私が尊敬する奏者の1人だったので、私も「はい、頑張ります」と返事をしました。  

 後日、校長室へご挨拶に伺い、色々とお話をした際、一番最後に校長先生がその件について言及され、
「村越さん、応援してますから。負けないでね。」
と、激励を送ってくださいました。応援していただいた嬉しさもありましたが、「負けないで」という言葉が私には印象的でした。中学生の頃、私の師匠が私にかけた
「ハングリーさのある人にはパワーがある」
という言葉が、この時しっかり自分と結びつきました。私は、彼女に限らず、自分の尊敬するミュージシャンを特別視しすぎて自分と切り離して考えてしまい、「私なんてまだまだですから…」が一生続くような気がしていて、「自分の成長の先があの人達かもしれない」という考え方がすっかり抜けていることに気がつきました。「ミュージシャンとしてやっていくには、あの人たちと自分も同じ土俵に立とうとしなければいけないし、立たなければいけない」と思った時、メンバーの発言はやっぱり悔しかったと感じるとともに、目の前が開けた気がしました。

 私がジャズミュージシャンになることをはっきりと決断したのは、高校2年生の5月上旬。既に警察の情報通信局(現 サイバー警察局)に進む道を確保するため理系クラスに足を踏み入れた後でした。それからは1年間、理系科目の洗礼を受け、小山教(物理の小山先生の授業は異常なほどに授業が楽しかった。)に傾倒しつつも、大学は神奈川にある音大を受験することに決め、生活に占める音楽の割合を増やしました。
 そしてその夏、私は札幌芸術の森で開催された音楽イベントに参加し、そこで「バークリーアワード」という賞をいただきました。その賞と別途受けたオーディションに合格したことで、高校3年(文転)の夏、バークリー音楽大学で毎年行われている5週間のプログラムに全額免除で参加することができました。短期留学中、大学の授業を受けたり、校内外のイベントに参加したり、バークリーを目指す人たちや実際に通っている先輩方と交流するにつれ、アメリカ留学に興味が出てきました。授業料や生活費、円安への心配もあり、色々条件が整わなければ難しいとは思いましたが、そのあたりのことは結果が出たら考えようということで、バークリーで入学のためのオーディションとインタビューを済ませて帰国しました。

短期留学中に所属したアンサンブルでのライブ


 帰国後は日本の音大受験の準備とアメリカのバークリー音楽大学の入学応募を同時進行で進めつつ、ライブ等をして過ごしました。
 バークリーの結果は10月に送られて来ました。内容は、仮の合格通知と奨学金の通知でした。合格通知が仮だった理由は英語のスコアが少し足りなかったためでした。再受験でなんとか合格ラインのスコアを取り、正式な合格通知を受け取ることができました。
 また、合格通知と共に受け取った奨学金については、授業料が全額免除になるというもので、
私が目指していたPresidential Scholarshipという、授業料に加えて寮費・食費・ラップトップ費用など多くの支払い項目を免除してもらえる奨学金ではありませんでした。
 難しい状況ではありましたが、周りの先輩方やミュージシャンのお話を聞いたりして情報を集めた結果、「解決策(節約術)はあるし、それ以上に行く価値がある」という結論に至り、バークリーに進むことにしました。
 ところが高校を卒業して1ヶ月後、バークリーからPresidential Scholarshipに選ばれたという通知が届きました。これにより心置きなく入学準備に取り掛かることができました。

 少し戻って高校3年生の6月、私がまだ日本の音大への進学を考えていた頃。いつもお世話になっているジャズクラブのオーナーさんが東京にある事務所の社長さんに私のことを紹介してくださったご縁で、社長さんから「高校を卒業して東京に来るなら10代のうちにアルバムを出しませんか」というお話をいただきました。
 無名で上京せんとする身としては魅力的なお話と思う一方、未熟な自分の音楽を世に出すと言うのに不安がありました。周囲の方々に相談したりお話を聞いたりしたことで、アルバムの制作に対する姿勢は前向きなものに変わりました。希望する進学先は日本の音大からバークリー音楽大学に変わっていましたが、留学に対応した計画の基、その年の12月にアルバム制作に踏み出しました。
アルバム収録曲は自分の中にあったイメージを元に、社長さんのノウハウを伝授していただきながら調節して決定。元々短期留学で持ち込むために書いていた1曲のオリジナル曲に加え、新しく2曲のオリジナルを書きました。
 レコーディングでは演奏に幅を持たせるため、2パターンの異なるピアノトリオと演奏させていただきました。
アルバムの名前は、「2つのピアノトリオとの共演による演奏の違いを楽しんでいただきたい」という思いを込め、私は配色技法の1つである「ビコロール配色」から取って「Bicolore(フランス語で「2色」等の意味)」の案を出しました。あえてフランス語である「Bicolore」をアルバムの名前にすることについて議論はあったものの、粘った結果「Bicolore」でOKをいただきました。社長さんによると、会社での会議では「今年はフランスでオリンピックもあるし、いいんじゃない?」という思いもよらない理由から可決されたとのことでした。最終的に見た目に少し手を加えて「BiCOLORE.」という名前になりました。アルバムのリリースに向けていくつか音楽雑誌のインタビューも受けさせていただきました。

 そして4月24日、私のデビューアルバム「BiCOLORE.」がリリースされました。

アルバム”BiCOLORE.” ジャケ写

 最初のリリースライブは、札幌にある、社長さんに私を紹介してくださったオーナーさんのお店でした。2Daysでしたが両日満席となりました。宮澤校長先生や2年時担任の鈴木先生、3年時担任の近藤先生、札南の友人たちや先輩方も来てくださいました。
 5月はBiCOLORE. のリリースライブ全国ツアーでした。ツアー中はレコーディングメンバーではなく、行った先々のミュージシャンの方とご一緒する形式でした。連日異なるプレースタイルを持つ様々なミュージシャンの方とご一緒したことで、様々な演奏アプローチに触れ、経験に触れ、学びの多いツアーでした。
 6月前半は札幌で渡米前最後のリーダーライブをさせていただいたり、念願だった私の師匠とのライブを企画・実現させていただきました。後半はリリースライブツアー北海道編。いつもお世話になっているミュージシャンの方々と共に釧路・帯広・旭川・札幌を回りました。
 そして遂に8月、リリースライブツアーは東京でFINALを迎え、留学前の活動は全て終了しました。

8/8レコ初FINALライブ 豪華なゲストのサックス奏者の皆様
8/8レコ発FINALライブ出演者全員との集合写真

 一連の活動を通して、ステージでのパフォーマンスや演奏技術だけでなく、アルバム作製から流通までの流れや様々な契約、領収書の書き方、お金の話や法律の話、良いフライヤーのデザイン、礼儀など、ステージ上に出てこない部分のお仕事も学ぶことができました。周りの方々が教えてくださるうちにこれらを経験できたのは本当によかったと思います。
ただ、「逆にそれが良い」とライブの度に言われたぎこちないMCだけは早急に改善を図り、しっかり話せるようになりたいと思います。

 大学在学中はアメリカからもSNSやラジオ等を通じて活動を続け、長期休暇中は一時帰国をして日本で活動させていただく予定です。留学をしながら事務所に所属して活動をするという珍しい形態であるため、試行錯誤を続けて活動をしていきたいです。

 小学3年生で出会ったジャズですが、今までは他の事と両立してきました。これからの大学生活では、音楽と向き合う時間がたっぷりあります。同年代のミュージシャンがたくさん身の回りにいる環境というのも私にとっては新鮮です。ジャズの生まれた国アメリカで、夏の短期留学で仲良くなったメンバーやバークリーの先生方、先輩方、そしてこれから出会うであろう世界中から集まるミュージシャン達と過ごすのが本当に楽しみです。そして、何よりも大学卒業後、自分がどんなミュージシャンになっているのか、楽しみで仕方ありません。

 最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。アメリカ頑張ってまいります〜!

村越 葵 (むらこし あおい)
ジャズサックス奏者

2005年生まれ。北海道出身。
8歳でサックスを始め小野健悟氏に師事。
10歳から15歳まで札幌ジュニアジャズスクールに所属。
2016年 アルゼンチンで行われた「IGUAZUEN CONCIERTO 2016」に日本人として初めて出演。2022年「Sax World」主催【超絶サックス・コンテスト2022アルト編】にて3位入賞、SAPPORO CITY JAZZ【ユースジャムセッション2022】にてバークリーアワード受賞など、様々な受賞歴や海外での演奏経験を持つ。
ソロ活動に並行してインストバンド「snack time 」で活動するなど、札幌市を中心にライブ活動を行う。
2024年4月にデビューアルバム「BiCOLORE.」をリリース。
Presidential Scholarshipを獲得し、2024年秋よりアメリカのバークリー音楽大学に留学。

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