六華だより

高校時代の交わりが、その後の人生の糧になった

第105号

大塚義孝(南9期)

20年ぶりの再会

 去る7月に、札幌で開かれた9期同期会食会に初めて参加した。南9期が同窓会総会の幹事をして以来、20年以上会っていない面々との顔合わせで、出かける前から少々胸が高まった。
 中学校時代から、70年近くお付き合いしているO氏から「3年の同クラスが毎回10人も出席している。札幌にいる同期生30名以上が集まっている」との強い誘いがあった。
 久しぶりの顔合わせだが、年相応の風格の中にも、高校時代の面影が隠れ見え、すぐに昔話や近況に花が咲いた。そのうえ、初出席と言うことで、近況報告までさせられる歓迎ぶりに、同期会に怠慢だったものとして、恐縮の至りである。

早飯

 私が南高に入学したときは、今と違い、札幌市内は4学区制で、公立普通科を希望する者は、進学先が決められていた。小中学校時代の隣近所の関係から、主に中島、柏、啓明中学からの入学が多く、校風も地域性も違い、馴染むのに時間を要した気がする。
 伝統ある学校の生え抜きの先生、大学卒業したばかりの新進気鋭の先生、高校先輩の先生など多彩なメンバーであった気がする。名物先生には大変失礼ながら「出目金」、「振り子」、「カンペラ」等々の先輩から受け継がれた「あだ名」がつけられていた。進学校でありながら、大学受験対策などは無関係に、専門の知識、学問を生徒に伝えようと淡々と授業を進めていく、授業を受ける生徒は、一心不乱にメモを取るもの、授業に関係ない別の教科の予習をするものなどさまざま、昼休みが楽しみで、グランドや体育館に授業が終わると一斉に飛び出していく、そのため、授業中の「早飯」が必然で、先生も知らぬ顔で、責任は自己に帰すかのような伝統校の校風があったような気がする。

銭湯まで一緒

 同期で10クラス500名が入り混じり、1年の時は同じ中学のメンバーとの通学路の関係で登下校時の交流が主体であったが、毎学年クラス替えになり、2年になると他中学卒業の仲間も加わり、ガリ勉でもなく、部活動にも所属しない気の合った10名程度の集団になった。下校時はいつも一緒、あちこちより道をし、夏休みは海でのキャンプ、土日は近所のグランドでスポーツ、その後銭湯に入るなど、しかし自宅に戻ると勉強に勤しんでいたようで、親密で楽しい高校生活を送ることが出来た。
 この交わりは大学は違えど、繫がり、社会人になってからは、全国各地に散らばって、職場での第一線で活躍し、家庭を持ったが、個々の交流は続いていた。
 このメンバーも60歳代になり、第一線からの退却し、再び集団となった。私がニセコにスキー仲間と共同で山小屋を建てたのをきっかけに、全国各地から集まり、ニセコを中心に、高校、大学時代にキャンプした跡地を訪ねたり、裏山でのキノコ採りなど2泊3日の交流を楽しんだ。この交流は10年以上続いたが、70代後半になると、天国に召されたもの、体調がすぐれないなどで、中止せざるを得なくなった。しかし私を含め元気のよい3人は毎年ニセコ連峰でスキーを楽しんでいる。

全日本マスターズアルペンで入賞

 蛇足ながら、この会報に寄稿する機会を得たので、近況を報告する。40代から同好会を作り始めたスキーは、最初はゲレンデスキーのインストラクター、昂じてニセコ連峰や大雪山系への残雪を求めて春スキーへ、今は競技スキーに挑戦し、全日本マスターズスキー選手権にエントリーし、70歳後半からは入賞できるようになった。
 地域では、町内会長を20年近く務め、盆踊り、夏祭り、運動会などのイベントに精を出し、ニセコの山小屋では、春の山菜、秋のキノコ採りなど1年を通して忙しい毎日を過ごしている。
 振り返れば、高校時代の交わりが、その後の仕事でも、スポーツでも、地域のボランティア活動で糧になっている気がしてならない。