札幌の音楽・演劇文化の片隅で
橋本 幸(南33期)
バブル期というのは一般に1985年~1991年前後を指すようですが、浪人、留年、休学、(修士)進学と、図らずも退学以外を軒並み経験しております私は、長いバブル期を全て学生という立場で送ると共に、しがないギタリストとして音楽、演劇等に携わっていました。当時の好景気はビジネスシーンにとどまることなく、地ベタの音楽シーンでは薄野の飲食店や郊外のビアホール等で演奏の仕事が数多くあり、演劇関係では小劇場ブームの中で旗揚げした劇団も一公演二千人前後が来場下さるような熱気がありました。道内巡業を企図して新聞の読者欄に投稿した「トラック下さい」という途方もなく厚かましいお願いは西区の八百屋さんの目に留まり、譲り受けた1.5tトラックは私の最初の自家用車となりました。
卒業後、私は国土交通省に入り、仕事と並行して音楽や演劇関係の活動も続けながら現在に至ります。文化芸術分野でもご活躍の方の多い六華同窓会の中で華やかに語れるものは何一つありませんが、タイトルの通り片隅、もしくは裾野のいちドキュメントとしてお付き合い下さい。
上述の劇団は北大の演劇研究会が母体となっており、私は舞台音楽の制作と演奏を担っていました。北大演研は大学当局から存在を認められていない「非公認団体」。公演の際は深夜に学生部の目を盗んで学内にテントを設営し、公演終了までそれを死守するというアングラど真ん中で、その血脈を継いだ新劇団も、市内の薄暗い石造の倉庫の雰囲気を好んで拠点化していました。
その頃の劇団は離合集散が常で、私どもの劇団も程なく活動を休止しましたが、拠点としていた西区琴似の倉庫は所謂「フリースペース」に趣を変え運営を続けました。石狩軟石という素材の魅力とも相俟って全国の様々なジャンルのアーティストから支持をいただくようになり、いつしかスペイン語で「愛をこめて」 という意味のコンカリーニョという名称が付けられました。
しかしJR琴似駅周辺は1988年の鉄道高架化以降、徐々に再開発の機運が高まっていきます。タワーマンションや商業ビルの計画が具体化していく中、倉庫は抵抗むなしく解体という運命に。振り返っても無謀な話ですが、その際に繰り返した議論の末、私達は同じ場所で劇場再建を目指すこととし、活動母体となるNPO法人を発足させました。
私達の活動に多少なりとも特徴と呼べるものがあるとすれば、ここから始まった劇場再建に至るまでのプロセスでしょうか。再開発組合との交渉、計画調整、劇場空間の確保、躯体の設計、構造計算、音響・照明の設置…といった数多の工程に対し、職業的な専門性を持って向き合えるメンバーが幸運にも揃い、各々自前で対応して行きました。お金が無いため他に選択肢がなかったというのも偽らざる実情で、木製の床は自分達で張り、壁は地域の方々にもお手伝いいただきながら塗り、客席の骨組は九州の小劇場と交渉して運んだ中古品でした。改めて書くまでもなく最大の壁は資金調達で、上記の直営対応により相当の経費削減は図れていたものの、なお建設費は数千万円に上ります。この時に私達を支えてくれたのが、この動きを知った本当に多くの市民の方々、そしてフリースペースを愛して下さっていた全国のアーティスト達でした。合計で千数百万円に上る寄付をいただき、金融機関からの融資と合わせて何とか最低限の資金を確保。2006年5月、JR琴似駅北側の商業ビルの中に床を借りる形でコンカリーニョという名前の劇場再建に至りました。以降今日まで、経営的には苦難の連続で絵に描いたような自転車操業を続けていますが、相も変わらず周囲の方々に助けていただきながら、何とか20年を迎えようとしています。
劇場再建に至った私達の中に新たに生まれたものの一つに、「この空間を地域の方々と共有したい」という想いがあります。西区にお住いの方々を対象に役者を公募して始めた「住民劇」はそれを体現した取組の一つで、回覧板を使って役者の募集を開始。人など来てくれるのだろうかと不安を抱えながらの呼びかけでしたが、4才から70才まで数十名の方が集まって下さり、公演も地域の皆さんで毎回満員に。それが現在まで続いています。大袈裟と感じられるかも知れませんが、文化や芸術に対する人間の欲求が世代を超えて普遍的なものと思わせてくれる瞬間でもあります。
他方、演者としての自分は、倉庫時代から変わらずこの劇場でライブを続けています。制約の多い役人稼業を続けながらの演奏活動は、自由なこの空間なくして決して継続し得ないものでした。私は10才の時、近くのごみ捨て場に捨てられていたギターを家に持ち帰ってギターを始めており、ちゃんと音楽を勉強したこともないため、恥ずかしながら未だ楽譜すら読めません。が、幸運にもそんな自分を、卓越した感性と能力で支えてくれる音楽人達がいて、公演の際は多くのお客様が劇場を埋めて下さる…。捨てられていたくらいなのでお世辞にも美しい音色ではないのですが、このギターを拾わなければ起こらなかった出会いや出来事が数限りなくあったわけで、幸せな縁への感謝を込め、今もライブで弾いています。
なぜ国土交通省の役人になったのか?と問われることが良くありました。確かに音楽や演劇の活動と官僚としての仕事は縁遠いように映るのかも知れません。ただ、及ばずながら政策に携わり、良い世の中とは何なのかと考え藻掻く時、役所の外側の多様な方々との関わりが自分の考えの角度を大きく広げてくれ、独善的になっていないかと自問する機会を与えてくれました。
重たい仕事が続いて心身共に疲弊した深夜、隣のコンビニでビールを買って裏口から劇場に入り、飲みながら寝そべって天井を眺めていたことが何度もありました。音楽、演劇、文化と社会との接点なんて大それたことを、それなりの時間を費やして考えてきた気はするものの、こうした瞬間の「自由」が、きっと自分の人生に必要だったんだろうなと、ぼんやり思うのです。
橋本 幸(はしもと こう)
1964年当別町生まれ。
北海道大学大学院工学研究科修了。
国土交通省北海道開発局長、北海道局長を経て、本年7月に退官。
北海道大学創成研究機構 D-RED客員教授。
NPO法人コンカリーニョ副理事長。
自身のライブ「ハシモトコウアワー」は毎回300席が完売するイベントとなっている。
第105号 の記事
2024年10月1日発行