六華だより

「100年目の熱い夏」〜㐂久一本店創業百周年記念展を終えて

第104号

伊藤千織(南35期)

 私の亡父の実家は、山鼻で仕出し屋を営んでいる。名を「㐂久一(きくいち)本店」と言う。大正12(1923)年創業で、昨年の8月に100周年を迎えた。

「仕出し屋」とは、冠婚葬祭・宴会・会議やイベントなどのお料理や弁当を、注文を受けて調理し配達する料理業のこと。(今風にいえばケータリングか料理も自前のUber Eatsといったところ。)

 㐂久一本店の創業者である私の曾祖父母・伊藤孝一とキクは、それぞれ富山県の城端(現・南砺市)と、今年災害に見舞われた石川県能登の出身。幼い頃に家族と共に北海道へ移民し、現在四代目社長の従弟・隆彦は5世代目にあたる。

 大正時代、室蘭で商売をしていた孝一とキクは、息子・隆起(たかき)の教育のために一念発起、札幌へ転居して、札幌一中の寄宿舎の賄い(まかない)職員として住み込みで就職。働き者で当時の山田幸太郎校長にかわいがられ、一中の近くで仕出し屋を創業。(㐂久一の店名は、キクと孝一の一文字ずつを取って山田校長が命名したらしい)。その後行啓通に移転後も教職員のお弁当を配達していたなど、㐂久一と一中〜南高とはご縁が深いことは、私も子どもの頃から聞かされていた。

一中寄宿舎の厨房

 その創業100周年を記念して、8月末からの10日間「㐂久一100年〜まちとアートと家族の物語」展を、札幌市民交流プラザSCARTSで開くことになった。言い出しっぺは私。1年前から実行委員会を組織し、仏壇脇に放置されていた未整理の古写真・古資料を掘り起こし、親戚や地方の遠縁の長老たちにインタビューを行い、協賛を募り、準備を進めた。

 そもそも、なぜ仕出し屋が美術展をやるのか?

 実は我が㐂久一=伊藤一族には、やたらと美術やデザイン関係者が多い。数えてみたところ、配偶者や孫子も含めた4親等ほどの中に18人もの美術学校卒がいる。一般的に美術系への進学は家族に反対されるものだが、伊藤一族には普通大学出身者は数えるほどしかいない。美術関係者が多い理由、そのきっかけも一中・南高と関係があった。 

 2代目社長である祖父・隆起(一中30期)は、大正15(1926)年に一中を卒業。当時の美術担当教諭の林竹治郎先生は、東京美術学校(現在の東京藝大)卒で、「朝の祈り」という油彩画で有名な洋画家だった。勉強はからきしダメだが本や絵が好きだった隆起は、一中で出会った林先生(通称ヤギさん)の指導に大きな影響を受け、美術の道に進むことを切望していた。一度は芸大を受験するも失敗。泣く泣く美術の道は断念し、創業間もなくの家業を手伝うことになる。隆起はその後も芸術への情熱を捨てきれず、アマチュアとして生涯創作を行なったが、その影響を受けたのが6人の子どもたちだ。自分の果たせなかった芸術や文化への夢を子どもたちに託し、うち3人が美大へ進んだ(私はこれを「リベンジ子育て」と呼んでいる)。

隆起のスケッチ

 長男・隆一(中30)は芸大へ進学後、漆工芸作家として大学で教鞭を取る。三男・隆道(南7)も南高演劇部の舞台美術に熱中し、芸大を経て造形作家の道へ。次女・隆代(南16)は多摩美術大を卒業、個人として創作や江戸時代の彫刻師「波の伊八」の保存活動に情熱を注いだ。家業を継いだが早逝した次男・隆人(南5)も演劇部で、絵もなかなか上手かったらしい。隆起の孫である私の兄・隆介(南32)は現代美術作家、授業中は寝ていたが行事だけは率先していた私も、今はデザインを生業としている。ちなみに、三代目社長夫人の故・ (米田)蓉子も行啓通出身の同窓生だ。(詳しくは六華だより 2007年(平成19年)第71号 リレー随想57 伊藤隆介(南32期)「家族と近所の学校」をご参照ください)

 これを自慢と受け取られると甚だ心外なのだが、このリストが示すのは、我が一族には世間が思う南高的秀才は一人としていない、ということ。三代に渡り、一貫して南高の「はみだし枠」「エンタメ・アート枠」を担当してきたのだった。

 展覧会準備の最中には、六華同窓会のご協力がなければ知り得なかった、家族の歴史が数多く発見された。百年記念館の棚に詰まった資料の数々、とりわけ大正15年以降欠かさず保管されている卒業アルバムや周年記念誌は、まさにお宝の山。今まで謎に包まれていた創業前の経緯や、一中寄宿舎時代の曽祖父母の証拠写真、若き日の父や叔父の演劇部時代や学生生活風景も発見された。恐るべし、六華の歴史とアーカイブ力!

㐂久一前_戦前

 展示内容は、㐂久一本店の100年のあゆみと地元・山鼻行啓通界隈のまちの変遷を、家族所蔵の写真や資料で辿る【一の膳】、2代目社長・隆起の生涯と芸術を紹介する【二の膳】、隆起の子ども・孫たちの美術関係者12名の作品を紹介する【三の膳】の三部構成。二の膳では、太平洋戦争末期に隆起と家族が移住した、海南島(現在の中国海南省)の生活や現地招集での従軍記を、色鮮やかで詳細なスケッチと共に残した「海南島防衛隊記」を80年近くの時を経て初公開した。
会場デザインや展示作業は、その道のプロたる一族のデザイナー軍団が総出であたった。その一致団結した様子は、年末のおせち料理の準備に賑わう仕出し屋の調理場さながらであった。

 
会場の様子

記念弁当

 さて、8月31日に始まった㐂久一展は、初日から沢山の方々にご来場いただき、主催者も想定外の賑わいとなった。山鼻界隈の老若男女やお取引先をはじめ、六華のみなさまにも多くお越しいただいた。中には会期中何度も通ってくださる方や、ご家族を派遣してくださる方も。会期中発売した限定の記念弁当も、おかげさまで連日売り切れとなった。

 沢山の出会いがあった中で印象深かったのは、㐂久一に最初にアートの心を吹き込んだ林竹治郎先生のお孫さんが、貴重な写真を携えてご来場されたこと。そこには、若き日の隆起と林先生が写っていた。

林先生と隆起(中央)

 会期中3000人近くの方々にお越しいただき、大盛況のうちに終了。1年がかりの熱い夏のお祭りが終わった。会期終了の翌月、叔母の隆代が亡くなったのは寂しい出来事だったが、その分展覧会は大切な思い出となった。

 ご高覧いただいた皆様に御礼申し上げるとともに、これからの100年も㐂久一本店のご愛顧をよろしくお願いします。

親せき交流マガジン「しんるい」


伊藤 千織(いとう ちおり)
プロダクトデザイナー・アートディレクター  

1966年札幌生まれ。
女子美術大学産業デザイン科卒業後、デンマークにて家具・空間デザインを学ぶ。札幌に伊藤千織デザイン事務所を設立。
家具・日用品等の製品デザインのほか、公共空間のインテリアや展覧会プロデュースなどを手がける。