森 重文君と私
杉本 純(南19期)
はじめに
平成2年8月21日付夕刊に森重文京大教授のフィールズ賞受賞が報じられた。基礎科学中の基礎科学、数学の分野でノーベル賞に優るとも劣らないフィールズ賞を日本人が受賞したことは誠に喜ばしいことである。フィールズ賞はオリンピックと同じく4年に1度、しかも40才未満という厳しい制限があり、ある意味ではノーベル賞より難しい賞であると言える。広中平祐京大名誉教授以来20年振りにこの賞を受賞した森教授とは、高校、大学時代に同学年の学生としてある「時」を共有したことがあり、あえて森重文「君」というタイトルとした。
「大学への数学」での出会い
当時の新聞や週刊誌等でも紹介されていたが、我々の高校時代数学に自信がある受験生は、難問が出題されることで有名で現在もある受験雑誌「大学への数学」の学力コンテスト(略して「学コン」)に応募したものだった。この学コンは、いわゆる受験数学の枠を超えていて、スタンダードな良問の他に、創造性が要求される難問や奇問が多かった。それだけに学コンに応募することは受験生活にオアシスを感じるような面もあったが、全6題から構成される問題全てに解答することは当時の数学自慢達にとっても極めて難しかった。
学コンは理科系と文科系コースとに分かれ、それぞれ1題25点、6題で150点満点となっていた。6題中4題は理科系と文科系とで共通であった。残り2題は理科系の方に難問が多かったが、文科系の問題にもユニークな問題があった。応募する数学自慢達は当然理科系であるが、共通問題が4題もあるため、文科系にも応募する人が多かった。応募者は全国で数百人から多い時で千人近くあった。解答が掲載される月には、各コースの成績優秀者の氏名が志望大学とともに載せられる。1等(1名)2等(3名)3等(10名)までは賞品が出たが、数十人からなる成績優秀者欄に名前を載せるのが難しかった。3ヶ月の得点を集計した連続成績優秀者の欄に名前を載せるのはさらに至難であった。あれだけの難問に毎回コンスタントに解答するには余程の実力が必要であった。
昭和44年は大学紛争により、東大入試が中止となった年だが、この年に京大を受験した者や数学に少しでも自信のあった受験生の間で、森重文君の名前を知らぬものはほとんどいないと思う。森君は、この学コンで高校2年の時から毎回ほとんど満点を続け、連続成績優秀者のいつもトップだったのである。数学の甲子園の超スーパースターであった。
当時の新聞等では、噂を記事にしたのかも知れないが、森君は名古屋市の東海高等学校時代、数学は抜群に出来て、実力テストで10回連続満点だったと報道されていた。計り知れない実力の持ち主だったことが分かる。インタビューでは数学以外は全然ダメだったような謙虚な答であったが、私の学生時代に同じ下宿にいた東海高等学校の1年後輩の話が本当だとすれば、ある実力テストで、森君は数学ばかりでなく、英語、国語全3科目満点の空前絶後の記録を作ったとのことである。
筆者は高校1年の後半頃から、岩波新書「物理学はいかに創られたか」(アインシュタイン他)などを読んでアインシュタイン博士に憧れ、ノーベル物理学賞で有名な京都大学で物理を勉強しようと思った。物理学の言語である数学も重要であることを知り、また興味もあり良く勉強した。毎朝授業開始の1時間近く前に登校して、数学の上島先生から薦められた問題集を解くことに集中した。そのせいか、高校2年から3年にかけての数学の実力テストでは6回連続で満点だった。森君と大いに違うのは、数学と物理以外は本当にダメだったことだ。国語にいたっては目を覆うばかりの惨憺たる成績だった。
それでも数学自慢の一人として、高校3年から学コンに応募するようになった。あの森君に少しでも近づくのが目標だった。最初は難問に手も足も出なかったが、そのうちに解けるようになった。提出期限が迫っても問題が解けず徹夜で頑張ったこともあった。問題が解けた時のきらめくような爽快感は何とも言えなかった。145点からついに150点満点も取れるようになった。その時は森君が2位で私は3位だった。嬉しくて飛び上がらんばかりだった。連続成績優秀者でも森君の1位に対して、4位や5位も取ることができた。当時の同級生が「あの森重文と肩を並べた」とオーバーに祝福してくれたことを今でも覚えている。連続成績優秀者でほとんどいつも2位だった清水博君のようなスーパースターもいたが、北海道の高校生で私以外に森君に肉薄した者はいない。こう見えても、私は数学の甲子園の地方のヒーローだったのだ。
成績優秀者欄(昭和43年10月号より、上位約1/4。個人情報保護のため、両人以外は非表示)
連続成績優秀者欄(昭和43年11月号より、上位約1/3。個人情報保護のため同上)
京大学生時代
昭和44年4月、森君と私は京大理学部に入学した。当時は大学紛争のため入学から半年位授業はなかったため、皆好き勝手なことをしていた。森君は好きな数学に専念していたと雑誌で読んだ。私はアイスホッケー部に所属して練習だ、合宿だとやっていた。その後、大学は正常化し我々は学部に進学した。森君は勿論数学科、私は物理学科であった。森君は隣の隣のクラスに居たが、ついに彼とは話す機会がなかった。気後れもあったのかも知れない。今にして思えば、学コンの同級生としての話題があったのにと悔やまれた。同じ数学科の友人やその先輩達が森君のことを異口同音に「すごい!」と評していたのを思い出す。
フィールズ賞受賞の報と熱き思い
筆者は大学院修了後、茨城県東海村の日本原子力研究所(現日本原子力研究開発機構)で原子力安全に関する研究をしていた。そこそこの成果はあったが、どこか諦観していたように思う。世の中を斜めに見ていた。そんな時、森君のフィールズ賞受賞の報を聞き、20年以上前の高校時代の「大学への数学」のことを思い出して心底懐かしかった。同時に、森君と私とでは、超スーパースターと地方のヒーロー位の違いが元々あった上、その後の精進に決定的な差があったものの、森君に肉薄した同級生の一人としてある「時」を共有したことを思い起こすことにより、ノーベル賞やフィールズ賞とまでは到底無理にせよ、自分の分野でもう一旗揚げてみようとの熱き思いを起こさせる大きな励みとなった。
研究成果と京大教授、月刊ウィーン
その後、研究所における研究では、寝食を忘れる程精進して国際的にも評価される成果を上げ、学会賞も2度受賞することができた。研究室長となっても先頭となってチームを引っ張った。研究所を定年退職後は、京都大学原子核工学専攻教授に公募で受かり、2011年7月から5年程研究と教育に従事する機会を得た。2012年、京大11月祭での森教授による若者向け講演会に出席して、高校生らと一緒に質問の列に並び、順番が来て、学コンで上位にいたこと、学部でクラスが隣の隣だったこと等を話したら驚いていた。京大定年退職後は、退職教授懇談会で森教授とご一緒した。その後は東工大特任教授を2年程務め、学生の教育に当たった。翻訳会社の社内大学校長を務めた時は、2019年4月の開校式で私が座長を務め、森教授に「私はいかにして数学者になったか」と題する1時間の開校記念特別講演をして頂いた。講演では、「大学への数学」や私のことにも触れて下さり、心底嬉しかった。これらは全て森教授のフィールズ賞受賞を契機としたものであり、私の72年間の人生にとって本当に感慨深いものがある。
最後になるが、研究所時代にウィーン事務所長を3年間務めた関係で、地元の日本人や日本人観光客向けの月刊情報誌「月刊ウィーン」に原子力に関するエッセイを長年執筆している。2019年3月号と2022年5月号には森教授が登場している。ご関心のある方は、是非下記HPを覗いて下さり、他のエッセイも含めてご感想を一言頂ければ幸いである。
url:杉本純 (wattandedison.com)
アドレス:sugimoto.jun14jp*hotmail.com(*は@にして下さい)
(了)
京都大学退職教授懇談会(2016年4月)にて
杉本 純(すぎもとじゅん)
高校時代は囲碁将棋同好会に所属。京都大学物理学科卒、原子核工学修士修了。日本原子力研究開発機構では炉心損傷安全研究室長、ウィーン事務所長、原子力人材育成センター長など。その後は京都大学原子核工学専攻教授、東京工業大学特任教授、(株)サン・フレア社内大学校長などを歴任。工学博士、英検1級、将棋三段。
第102号 の記事
2023年3月1日発行