六華だより

六華だより100号の歩み その3=21~30号

第102号

 創刊から半世紀を過ぎた会報誌「六華だより」の歩みを振り返る連載の第3回は1982年(昭和57年)9月30日発行の第21号から1987年(昭和62年)3月10日発行の第30号を取り上げます。

会報発行委員会

修学旅行

 時間も空間も日常の学校生活を離れ、寝食を共にして仲間と語り合う。修学旅行は、多くの同窓生にとって指折りの思い出と言えるでしょう。第21号「特集 修学旅行」では時代ごとの修学旅行の変遷や、参加者の思い出が綴られています。

1982年9月発行の六華だより第21号「特集 修学旅行」

 最初の修学旅行が行われたのは開校3年目の1897年(明治30年)。札幌尋常中学校5年生18人が9月18日、支笏湖、登別、洞爺湖などを10泊11日かけて回りました。

 小林茂本さん(中21期)は、小林さんが札幌第一中学校5年生だった1916年(大正5年)の様子を寄稿しています。1年生は銭函、3年生は1泊2日で旭川など学年ごとにそれぞれ旅行が行われ、5年生は5泊6日で函館、大沼公園、有珠山、洞爺湖などを訪問しました。交通機関が発達していない当時、長距離を除いてすべて徒歩で移動。「一日約七、八里を踏破した」とのこと。歴史や産業を学ぶことはもちろん、函館では重砲兵大隊や軍艦扶桑も見学しました。函館中学校にも訪問しています。当時の道内の中学校は札幌第二、小樽、旭川、そして函館の5校だけだったこともあり、親睦を深めるのも恒例行事だったそうです。

 1922年(大正11年)からは津軽海峡を越えて道外へ。しかし、京都の五条大橋で、現地の中学生とけんかを繰り広げたようなこともあったようです。戦時中は、修学旅行は中止、代わりに札幌周辺への「援農」に出陣となりました。旅行用の積立金は、防毒面や鉄帽の購入へと充てられたそうです。新覚啓一さん(中48期)はこうつづっています。「国家目的のために強いられた労働であったとしても、農家や学校で友人と寝食をともにし、農作業に汗を流した日々は何物にも代え難い貴重なものと思っている」

雪戦会今昔

 著名な学校行事といえば「雪戦会」。開校3年目の1897年(明治30年)に始まり、戦後に中断しましたが、1973年(昭和48年)に復活し1991年(平成3年)まで続きました。4人1チームからなる騎馬が互いに相手陣営の雪城目指して突入。垂直に切り立つ石垣ならぬ「雪垣」を騎手がよじ登り、頂上の旗を奪い合う競技です。かつては多くの市民が観戦に訪れ、冬を楽しむ、さっぽろ雪まつりのルーツの一つともいわれています。

 1984年(昭和59年)3月10日発行の第24号では、菅忠淳さん(中42期)が「雪戦会の思い出」を寄稿しました。菅さんは長く北海道新聞で記者として活躍し、札幌の自然や生活、文化などを記した「さっぽろ文庫」の雪戦会の項目も担当しました。菅さんは、その一節を引用しつつ「道具も使わない、金もかからない、若さとエネルギーだけがあればこと足りる冬のスポーツが、こうして誕生した」と表現したうえで「雪戦会は“青春時代のシンボル”」「青春とは胸の中で永遠に生き続ける夢」と表現しました。

 1986年(昭和61年)3月10日発行の第28号では「雪戦会今昔」と題し、当時の生徒会執行委がその前年に校内配布したイラスト入り資料を掲載しました。

雪戦会のルールをイラストで説明した生徒会執行委資料が掲載された第28号

 このときは敵の雪城の頂上につけられた風船を割ったほうが勝ち。「小中学校の騎馬戦とちがい、相手の騎馬を力ずくでふっとばすのである。ヤバンな競技である」、押したり引いたりはいいが、殴ったり蹴ったりは禁止。反則が見つかったらペナルティボックス(金網で四方を覆われたテニスコート)に入れられ、行事終了まで出られず「さらに終わってから雪城くずしをやらされます」というものでした。

創立90周年 

 さて、母校は1895年(明治28年)4月1日、札幌区北8条西4丁目(現在の北10条西4丁目)に札幌尋常中学校として設置され、同年10月19日に開校の式典が行われました。それから90年を経た1985年(昭和60年)10月1日に発行された、六華だより第27号「創立90周年記念号」では当時の六華同窓会会長、新保幸太郎さん(中30期)と学校長の小林純幸さん、前六華同窓会会長の佐藤貢さん(中20期)のあいさつ文にはじまり、幅広い先輩方の思い出が掲載されています。

 当時の新保会長は札幌医科大学名誉教授(病理学)。1965年から70年までは同大学長も務めた著名な医学者でした。新保会長は今後への期待として「各種体育スポーツの面でも勉学と平行して立派な成績をあげること、また種々のクラブ活動を通じて教育を高め人間性を確立して、将来に期待される社会人として世界人類に貢献し得る人材となる基礎を造り上げること」と記しました。なお、当時の小林校長は、札南紛争時代の1970年(昭和45年)から3年間は教頭を務め10年後の1983年(昭和58年)、校長として赴任。1987年の退職後は、北海道教育委員長なども務めております。

 「在学時代の思い出と卒業後の苦労話」には6ページ半にわたって34人の先輩方が寄稿。在学時代の恩師や友人とのエピソード、制服も制帽も国防色に替えられた戦中期の様子などが綴られました。
なお、90周年に向けては、1966年(昭和41年)まで正門として使われた「六華の門」の復元工事が行われました。第24号(1984年=昭和59年=3月発行)では、荒れるにゆだねて放置されていた門柱の復元を呼びかける記事が掲載されています。

札幌南高校の正門の横にある「六華の門」。90周年に合わせて復元工事が行われた