六華だより

サトゥーと「じん」と、「走ること」

第109号

阿部 雅哉(南43期)

 先輩、後輩の皆さんにも、札南在学中に思い出に残った先生がいらっしゃると思います。我が43期にとって、そんな先生の一人が佐藤裕寛先生です。そして、佐藤先生のことを「佐藤先生」と呼んでいる同期を、少なくとも私は見たことがありません。みな親しみを込めて「サトゥー」と呼んでいます。なぜそう呼ばれるようになったのかはよく分かりませんが。

 私は43期の阿部雅哉と申します。父親の仕事の都合で道内を転々とし、記録的な入試倍率を潜り抜け、札南に入学したのは1990年。12クラス、111と112の校舎が建設されるという、そんな団塊ジュニアのど真ん中の世代です。サトゥーが担任になったのは高2の時でした。朝のホームルームでは、時折「昨夜のススキノの余韻」を漂わせていることもありました。その一方で、とても生徒思いの先生でした。風貌からは想像できないかわいい字で、「Second Wind」という学級日誌も発行していました。残念ながら今は手元にありません。
 高校までは跳躍の選手、大学では少林寺拳法部。見た目もなかなかの迫力です。そして、褒められた記憶は正直なところまるでありません。そんなサトゥーですが、私にとっては陸上競技の恩師でもあります。
 私の専門は800mと1500m。加えてマイルリレーも走りたい。目標は3種目で仲間と一緒にインターハイに出場することでした。当時の陸上部には中長距離の専門家がおらず、顧問を通じて頼ったのがサトゥーです。正式な陸上部顧問ではなくバスケット部の顧問でしたが、以前の赴任校から陸上競技を教え、インターハイ選手を育てていたことを知ったのは、実は卒業してだいぶ経ってからです。

 授業が終わると、体育準備室の窓からサトゥーがいるかを確認し、その日の練習メニューを聞くのが日課でした。高3になった1992年、同じ中距離種目の同期はいませんでした。サトゥーから示された設定タイムをクリアしていくことが毎日の「タスク」でした。
たしか試験前の日曜日。自宅近くの札大のトラックで練習したいとサトゥーに申し出たことがありました。メニューはかなりハードなもの。一人ですから、手を抜こうと思えば抜けます。アップを終え、「さあ始めるぞ」と視線を上げると、その先の土手からこちらをうかがうサトゥーの姿が。ちゃんとメニューをこなすか、偵察に来ていたのでした。

 私たちが現役の時、サトゥーが大会に来てくれたのは、高3の全道大会だけだったと記憶しています。サトゥーが札南のテントに鎮座していると、噂を聞きつけた各校の陸上部顧問の先生方が、まるで「サトゥー詣で」のように次々と挨拶にやって来ました。その光景を見て、高校生だった私は「この先生、実はただ者じゃないんだ」と初めて気づきました。
 今でも脳裏に焼き付いているのが、その大会で800mの準決勝から決勝まで、わずか1時間しかなかった時のことです。サトゥーが疲労した全身をマッサージしながら、力強い言葉をかけてくれました。「Second Wind」とは、陸上競技では苦しさを乗り越えた後、再び体が軽く感じられる状態をいいます。あの時の私は、精神面でのSecond Windを感じていたのだと思います。そして目標だった800m、1500m、マイルリレーの3種目でインターハイに出場できました。仲間の存在はもちろんですが、サトゥーがいなければ私のインターハイ出場はなかったと思っています。

 卒業後もサトゥーとは毎年、年賀状をやり取りしました。メールもSNSもない時代、年に一度の近況確認です。そこには以前から「定年になったら居酒屋をやる」と書かれていました。
 出張で東京に来られた際には何度か一緒に飲み、そこで初めて、サトゥーが教育心理に造詣が深く、それが専門分野であることを知りました。高校生の頃は自分のことで精一杯でした。大人になって話をするようになり、陸上競技の指導者だけではない、教育者としてのサトゥーの凄さを少しずつ知ったように思います。

 サトゥーが「いつか居酒屋を開く」と心に決めたのは30歳の頃だったそうです。各地の居酒屋で店主や客と交流し、自分もそんな人情の生まれる場所をつくりたいと思ったといいます。私が年賀状で何度も目にした言葉は、ずっと温め続けていた夢だったのです。
約40年の教員生活を終えた2010年6月、円山に「そば居酒屋じん」を開きました。会員証を作れば特典をつけてやると聞き、私は真っ先に返信用封筒をしたためてお願いしました。初めて訪れたのは陸上部の同期10人ほどと一緒でした。店でまず目に飛び込んできたのは、大きな額に書かれた「平常心」の文字。高校時代、私が大会で締めていたハチマキに書かれた、サトゥーからもらった言葉と同じでした。

 2014年6月、「じん」は西28丁目へ移りました。東京で暮らす私にとって、帰省して同期や後輩と集まる場所といえば「じん」でした。「陸上部ノート」には、札南陸上部の先輩、同期、後輩が近況を書き残していました。道内外から学校関係者も集い、サトゥーが思い描いた「人が集い、人情が生まれる場所」は、まさに「じん」という形になっていたのだと思います。

 私たち43期もずいぶんお世話になりました。マイルリレーチームで作ったナイキのトレーナーを店に飾ってもらい、「正装」と称して高校時代のユニフォームをシャツの下に忍ばせて集まったこともありました。いい歳をしたおじさんたちが昔のユニフォームを着て飲む。「じん」ではそれが普通でした。サトゥーや仲間と語らい、最後はサトゥーが打った幌加内蕎麦で締める。それがいつもの楽しみでした。会員証は結局一度も提示しませんでしたが、社会人になってからも「学割」のような安さで、いつも会員特典を受けているようなものでした。
 2026年3月末、京都から同期が仕事で札幌に来ることになり、私も有給休暇を取って「じん」を訪ねました。喜寿を迎えたサトゥーに「Satoo」と「77」を入れた紫色のTシャツをプレゼントしました。結果的に、それが私にとって最後の「じん」になりました。サトゥーは体調のこともあり、夏を迎える前に店を閉めました。

 私たちの時代、サトゥーは正式な陸上部顧問ではありませんでした。しかし、多くのインターハイ選手を育て、その後の強い札南陸上部への道をつくった人だと思っています。
 そして私自身、競技としての陸上は高校で終えたのに、今でも走ることが好きです。サロマ湖ウルトラマラソンも北海道マラソンも、都合がつけば参加しています。走ることは仕事の気分転換であり、一人になれる時間でもあり、今では欠かすことのできない生活の一部です。
 それをすべてがサトゥーのおかげだと言う訳ではありませんが、仲間をはじめ、多くの人との出会いがあって今があります。それでも、サトゥーがいなければ、今の自分はこうなっていなかったと思います。

 「じん」がなくなったのは、やはり残念です。でも、これまでのようにサトゥーが店の準備をする必要はもうありません。体調が落ち着いたら、今度は何の心配もせず、サトゥーを囲んで、またみんなで集まりたいと思っています。

阿部 雅哉(あべ まさや)

1974年 北見生まれ。東京在住。

資産運用会社でトレーダーとして日々マーケットと向き合っています。趣味は自転車で、特にヴィンテージものが好き。気がつけば6台に増え、置き場所に頭を悩ませています。