六華だより

六華だより100年の歩み その7=61~70号

第106号

 会報誌の半世紀を振り返る連載「六華だより100号の歩み」も7回目となりました。今回は2002年(平成14年)10月1日発行の第61号から2007年(平成19年)3月1日発行の第70号を振り返ります。

会報発行委員会

戦後80年

 今年2025年は、第二次世界大戦が終結して80年の節目の年です。先の戦争に関する話題は、六華だよりでもたびたび取り上げられています。その一つが、2003年(平成15年)3月1日発行の第62号に掲載された「勤労動員時代の思い出」。札幌医科大学名誉教授の黒川一郎さん(中52期)が、3年生となった1944年(昭和19年)からの動員の様子を執筆しました。

「勤労動員時代の思い出」が掲載された第62号

 黒川さんのクラスD組(当時は敵性語排除のため4組)は篠路の龍雲寺に合宿して援農生活を開始。水田の除草作業に取り組みました。「腰を曲げての辛い作業でした…(中略)…仕事で手首が腫れ上がると(ソラデという)、絹糸を巻き付け、むくみが広がらないようにするなど、色々工夫しました」と記しています。期末試験を挟んで9月からは石狩高岡に赴き、鎌で稲刈りを行いました。

 12月からは、現在のオホーツク管内滝上町へ。鉄道省(後の国鉄)渚滑線の終点、北見滝ノ上駅からさらに森林鉄道で30キロほど山奥にあった「ペンケ官行斫伐(しゃくばつ)事業所」で、冬山造材作業に従事しました。材木の直径や長さを測って容積を算出し、ガンタという器具を使って軌道で材木を運ぶための台車に積み込みました。ノミとシラミにも悩まされる日々。大豆で水増ししたご飯に、顔が写るほど薄い「鏡汁」と呼ばれる味噌汁で、氷点下30度の極寒作業に耐え抜きました。4年生に進級した1945年(昭和20年)4月からは札幌の鋳物工場で終戦まで働いたそうです。後年、最もつらかった冬山作業をしのび、クラス会のことを「ペンケ会」と呼んでいたそうです。

 終戦前後の学業の様子については2006年10月発行の第69号に武田清克さん(南1期)が、2007年3月発行の第70号に中53期の谷口博さんと山本晋也さんが執筆した「太平洋戦争終戦前後の六華の学生達」に書かれています。第69号によると、1938年(昭和13年)に文部省が「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」との通達が出され、戦争末期には「決戦教育処置要項」に基づき、授業はほぼ停止。さらに1943年(昭和18年)に中等学校令が改正され、この年の入学者から修業年限が5年から4年に短縮されました。翌年は、正規の授業は学年末考査の直前だけだったそうです。

一中の思い出

 私たちの母校は1922年(大正11年)に現在地に移りましたが、当初設立されたときには札幌区北10条西4丁目にありました。地下鉄南北線北12条駅東出口のそばに、「発祥の地」の碑が建っています。この碑を作ろうと中心になって動いたのが、1921年に入学した中30期と、22年に入学し、1学期を旧校舎で過ごした中31期の先輩方でした。

 小竹俊夫さん(中30期)が第69号に執筆した「卒業五十年の会と『発祥の地」』の碑について」によると、卒業55周年を記念して1981年に開いた同期会で「昔を語る何物もなかった」と発言があり、さらに同年秋の六華同窓会常任幹事会で牧信胤さん(中31期)からも記念碑建設の提案がなされたそうです。そこで、中30期、中31期を中心に建設期成会を立ち上げ、雪印乳業初代社長として知られる佐藤貢さん(中20期)を会長に活動を開始。320人余りからの寄付をもとに1983年9月に除幕となりました。

地下鉄南北線北12条駅東出口のそばに建つ「発祥の地」の碑。冬期間は雪の中

 一中の年中行事といえば「雪戦会」と「兎狩り」でした。雪戦会は戦時下の1945年(昭和20年)1月も勤労動員先から一部の生徒が戻って行われたそうですが、兎狩りは非常時にふさわしくないとのことで1940年(昭和15年)を最後に中止。このとき捕獲された9羽は陸軍に献納されたそうです。

 終戦後、雪戦会は「好戦的な行事」と判断した学校側の判断で中止となりましたが、生徒の間には「兎狩りだけでも復活させたい」との思いがありました。こうして1947年10月、旧陸軍演習場の跡地、厚別(あしりべつ)原野(現在の清田区)で兎狩りが行われました。生徒たちは自転車や徒歩で早朝、厚別小(現在の清田小)前に集合。小高い丘の頂上近くに網を張り、棒を手にした勢子が麓から隊列を組み、喚声と共に駆け上ったそうです。ウサギは素早く勢子の間を縫って逃げ去り、数回繰り返した後、1羽を捉えることができたそうです。兎狩りはこれを最後に終了したと、第61号に吉田安さん(中53期)が記しています。

第61号に掲載された「一中最後の『兎狩り』」

各界での活躍

 2002年7月14日、1隻のヨットが10カ月の航海を終え、小樽港に戻ってきました。大瀧健一さん(南18期)が挑戦した単独での世界一周航海。目標としていた「無寄港」は、途中、氷山に衝突し、南アフリカのケープタウンでの修理を余儀なくされ、達成できませんでしたが、単独世界一周は北海道内のヨットマン初の快挙でした。第61号には大瀧さんが執筆した「世界一周で得たものは…」が掲載されています。

 第61号には現役生徒の活躍も記されています。同年8月4日、全国高校定時制通信制大会で、定時制バスケットボール部が連覇しました。東京六華同窓会をはじめとする在京同窓生の応援もあり、選手たちは2年連続での全国での頂点に立ったのです。この様子は顧問の沢田展人先生(南22期)が記しています。そして同月8~9日、高知県で行われた全国高等学校漫画選手権大会「まんが甲子園」で、漫画アニメーション研究部が全国2位に輝きました。

 2004年10月発行の第65号では、当時の旭川市旭山動物園の園長、小菅正夫さん(南17期)が「今も動物たちと暮らしています」を執筆しました。野生に近い環境を作ることで生き生きした動物たちの姿を見せる「行動展示」で、閉園の危機にあった動物園を「日本一」と呼ばれる場所にした立役者。小菅さんは2005年10月15日に行われた創立110周年記念行事でも講演会講師を務めました。

 日本を代表するクラシックの国際教育音楽祭といえば、パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)。夏の札幌に欠かせないこのイベントに合わせて2006年7月、全国音楽ボランティア札幌フォーラムが開かれ、NHKアナウンサーの森田美由紀さん(南28期)が「芸術文化のあるまち」をテーマに記念公演を行いました。同年10月発行の第69号に、この模様が紹介されています。