激動の青春を振り返る ~ 戦後80年に寄せて
小山田 碩(中52期)
第二次世界大戦の終結から80年。当時、私たちの母校に在学中の先輩方は、学徒勤労動員で校舎を離れ、勤労奉仕を続けていました。終戦時、北海道庁立札幌第一中学校4年(現在の高校1年)だった小山田碩(おやまだ・せき)さんは、同じB組の仲間たちとともに、動員先の手稲鉱山で、戦争終結を告げる玉音放送に耳を傾けました。戦争遂行の命を帯び、ひたすら労働を続けた当時の思い出を伺いました。
構成 六華だより編集委員 佐藤元治(南38期)
我々が入学した昭和17年(1942年)は、真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争開戦の翌年でした。2年生まではまだ普通に授業がありましたが、3年生からは勤労動員で、ひたすら労働に明け暮れる毎日でした。
終戦の年、昭和20年の元旦、我々は四方拝のために登校しました。謹んでご真影に新年のお慶びを申し上げる儀式です。この日の最低気温は氷点下15.8度、非常に寒かったのを覚えています。当時我々は3年生。儀式の後、B組(当時は敵性語排除のために「2組」と呼んでおりました)は、まもなく始まる手稲鉱山での動員に向け、打ち合わせを行いました。生徒53人のうち、海軍兵学校予科の合格者などを除く49人で、寝食と作業を共にする7班を編成しました。
1月8日、札幌駅から汽車で軽川(現在の手稲)駅へと向かいました。到着したときには猛吹雪で、どこが道なのかも分からない状態。隊列を組んで1時間ほど歩いたでしょうか。ようやく鉱山寮に到着しました。
手稲鉱山は当時、日本有数の鉱山でした。もとは金山で、昭和15年には紋別の鴻之舞鉱山に次いで全国2位、16年には全国3位の金の産出量を誇っていました。しかし、戦争が激化するにつれ、より軍需に直結した銅の生産に転換。鉱員の多くは、戦地へと招集され、代わりの労働力の一部を担ったのが我ら一中生でした。
我らが職場は選鉱場です。掘り出された鉱石から金属分を取り出すために設けられ、規模は「東洋一」と言われました。
仕事は破砕、手選、磨鉱、浮選、精鉱の5部門に分かれていました。破砕は、坑道から送られてきた岩石を鋼鉄製のクラッシャーで砕く工程で、猛烈な埃と轟音の中で、巨大な岩石による機械の停止や部品の摩耗などの異常を監視することが任務でした。
鉱石が含まれない石ころをズリといいます。手選はズリを手作業で取り除く工程で、多くの女性たちが働いていました。我々の役割は、女性たちがより分けたズリを排出用のベルトコンベヤーに載せたり、さらにトロッコに積み替えて運び出したりすることでした。

その後、鉱石は小さな鉄球と共に、巨大なコンクリートミキサーのような機械に入れられ、細かく砕かれます。この工程が磨鉱で、鉄球をはじめとする思い消耗部品の運搬を任されました。
磨鉱で粉々になった鉱石は、水が加えられ泥となって浮選場に流れてきます。私が配属されたのはこの工程です。浮選場では百数十台の浮遊選鉱機が轟音を上げていました。泥に発泡剤を加え、浮遊選鉱機で攪拌すると、泡に金銀銅など金属分がくっついて分離されるという仕組みです。この発泡剤が強烈な悪臭で、最初は息をこらえるほどでした。私自身はそのうち慣れましたが、服にもにおいが染みついて、周囲を辟易させたものです。
浮選場にいるのは50代の鉱山職員が1~2人で、我ら一中生が5~6人。発泡剤の調合も我々の仕事でした。浮遊選鉱機はしばしば動力伝達のベルトが切れます。素早く見つけて機械を止め、ベルトを交換しなければなりませんが、とにかくベルトがよく切れるのです。物資不足で新品のベルトなどありません。切れたベルトをつなぎ合わせて作った予備と交換するのですが、予備を準備するための材料も不足していました。交換が遅れると、泥が徐々に固まってしまいます。この泥を取り出すには装置の底に潜り込んで栓を抜くしかないのですが、頭から泥をかぶったこともありました。そういえば強風で、天井のブリキ板が落ちてきたこともありました。このときは竹棒で押し上げたのを覚えています。
浮遊選鉱機でより分けられた真っ黒く重い金属成分を精鉱と呼びますが、これをトラックに積み込むのも一中生が担当しました。これらは軽川駅から貨物列車で内地へと運ばれ、そこで金銀銅がより分けられるのです。さらに鉱山で使う様々な部品を直す部門や、成分分析を行う試験室に勤務した人もいました。最初は日勤の8時間勤務でしたが、途中から12時間交代となりました。若いとはいえ、夜勤が1週間ぶっ通しの時は、かなり堪えました。いずれにしても、つらくきつい仕事でしたが、それでも、懸命に業務に当たりました。
当初は、鉱山での動員は3月までと聞いていました。しかし、我々に伝えられたのは「国民学校初等科を除いて、向こう一年授業を停止し、現状のまま勤労作業を継続する」とのこと。手稲に来て以来3カ月間、一度も授業を受けていなかったこともあり、非常にショックを受けました。担任の川合和安先生が掛け合い、鉱山の選鉱課次長で一中の16年先輩の折原偉佐夫さん(中36期)が数学の授業をしてくれることになったのです。また、川合先生も折を見て国語の授業をしてくれました。
思えば、我々の学校生活は戦争と共にありました。入学したばかりのころは、まだ部活のようなものがありました。「国防訓練部」といい、私は「滑空班」に入りました。グライダーの練習をするのです。機首にゴム紐を綱状に束ねたものがついており、それを人力で引き延ばして飛ばすのです。ゴムをひたすら引っ張るのが1年生の役割でした。
3年になってからはひたすら勤労動員が続きました。丘珠飛行場の関連施設の建設補助、北24条にあった札幌飛行場(戦後閉鎖)の滑走路建設、篠路や江別への援農と労働の日々でした。
つらい作業に耐えられたのは、「お国のためになっている」と純粋に信じていたからです。手稲鉱山にいたときも「日本は勝つ」と思っていました。我々の外部を知る唯一の情報は新聞でした。寮に届く新聞は,タブロイド判4ページだったと記憶しています。検閲されていますので、あからさまには書かれていませんでしたが、「玉砕」や「転進」といった言葉が目につくようになってきたのです。
3月13日、札幌聯隊司令部の大尉が手稲鉱山を訪れ、戦局について講演しました。大尉は自信満々に「敵の保有機は減少し、我が国は増加している。必ず攻勢に出る」と語気を強めました。しかしその後は東京大空襲、硫黄島玉砕、米軍の沖縄本島上陸という報道が続きました。5月にはドイツが無条件降伏したのです。級友の中には「日本はだめではないか」と言うものも出始めました。おそらく当時の大人には、敗戦が見えていたのではと思います。
8月15日、重い雲が垂れ込め、時折小雨のぱらつく肌寒い日でした。正午から重大放送があるとのことで、娯楽室に整列しました。天皇陛下自らの放送とのことで、威儀を正してそのときを待ちました。
放送は聞き取りにくく、難解でした。しかし、ただならぬ内容だということは伝わってきました。川合先生が悲壮な面持ちで解説してくれました。体から力が一気に消えていく感じでした。
手稲鉱山で過ごした8カ月弱、苦しいことをひたすら耐え、頑張るという貴重な経験だったと思います。そして、情報を見極める大切さも知りました。あのころは、上から言われたことはすべて疑問を持たずに受け入れていました。しかし、物事に真剣に取り組みつつも、同時に一歩引いて、俯瞰して見られることが大切なのです。私は長く教員として働きましたが、多様な視点から物事を見つめられる子どもたちを育てようと努めてきました。「だめなものはだめ」と言えることの大切さをあらためて伝えたいです。
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昭和17年入学B組「手稲会」は、戦後50年となった平成3年(1995年)、当時の生徒日誌をもとに5年間の思い出をまとめた「激動の我等が青春」(A5判、406ページ)を自費出版しました。通産省工業技術院地質調査所(現産業技術総合研究所地質調査総合センター)の所長を務めた垣見俊弘さん(2013年逝去)と元気象庁長官の菊池幸雄さん(2017年逝去)が巻頭言を寄せ、小山田さんが本文の執筆を担当しました。国立教育政策研究所、北海道大学、北海道教育大学の図書館に所蔵され、札幌市中央図書館では貸し出しも可能です。
札幌一中、北海道学芸大学を経て、小学校教員に。北海道教育大学附属札幌小副校長、道立教育研究所教科研究部長、札幌市教育研究所所長などを歴任し、1990年に市立幌西小校長で退職した。
第106号 の記事
2025年3月1日発行