南高を卒業してちょうど50年が経ちました。
山内 良祐(南25期)
高校1年の2学期から制服が自由化され、校内では学生運動が盛んでした。中学生の頃とはまったく異なる環境で、政治や経済を語り合う先輩たちがとても大人に見えたのを覚えています。当時、日本は高度成長期を終え、ドルショックの影響で景気が急激に後退していました。
「翼をください」「Let It Be」「神田川」「Hotel California」「Bridge Over Troubled Water」「ルビーの指環」「Dancing Queen」「Imagine」——あの頃は、単なる情景描写ではなく、反戦や情熱的な愛をテーマにした輝かしい楽曲が数多くありました。南高でもフォークソングを中心の「歌う仲間」や、本格的なウエスト・コースト・ジャズを演奏する「軽音楽クラブ」があり、クラスの半分ほどがギターを弾ける、そんな時代でした。
今のSNSのように個人を発信する場がほとんどなかったため、すでに世に出ているものの中から自分が支持するものに熱烈な愛情を注いでいた気がします。家に帰ると、夕方のラジオで「ベストテン北海道」を夢中になって聴き、ラジカセのマイクをスピーカーに押し当てて録音し、お気に入りの曲をカセットテープが伸びるまで何度も聴き返しました。
私は合唱クラブに所属していましたが、フォークやジャズを演奏する友人たちを「自由でいいな」と羨ましく思っていました。卒業生を送る会の予餞会(今もあるでしょうか)では、海援隊の「母に捧げるバラード」を演奏し、会場を爆笑の渦に巻き込んだ思い出があります。
卒業後数年して、フォーク仲間のボーカルを務めていた小学校からの友人が、慶応大学の公式バンド「KALUA」で活動していると知り、誘われて新橋のヤクルトホールでのリサイタルを観に行きました。男声2人・女声2人のボーカルに、ピアノやギターを加えた5人ほどのバックメンバーという構成。プロ並みの演奏に衝撃を受けると同時に、「自分もこんなステージに立ちたい」と強く思いました。
すると間もなく、その南高の同級生から「男声ボーカルが不足しているから参加しないか?」と声がかかりました。大学が異なっていても参加できると知り、小躍りして喜んだのを覚えています。そして翌年にはKALUAに加入し、ヤクルトホールのステージに立つことができました。
バンドの練習は厳しく、総勢40人くらいでレギュラーとしてステージに立つ10人のメンバーと、それを支えながらレギュラー昇格を狙うジュニアチームに分かれていました。発声・音程・英語の発音・ハーモニー・ブレス・音量・振り付け・歌の表現力などを、週3回・3時間ほどの練習と、年2回の合宿で徹底的に鍛えられました。
練習後は、決まって安い居酒屋へ。川エビの唐揚げとなすの味噌炒めを肴に、ビールを大量に飲むのが恒例でした。特に私を含む3人のボーカルと1人のギタリストは、いつも一緒に飲んでいました。そして今もなお、そのメンバーでバンド活動を続けています。
大学卒業後、若手社員として忙しい日々を送る中でも、バンド仲間の結婚式のたびに集まって演奏し、それが20年ほど続きました。KALUAのOB会も毎年開催されていましたが、仕事の関係でしばらく参加できませんでした。しかし、酒を飲みながら音楽談義に花を咲かせる機会は続き、あるとき「もう一度ちゃんと音楽をやりたいね」という話になり、まずはOB会で演奏してみることにしました。
やはり音楽が好きな仲間たちと、真剣にコーラスを合わせ、「ああしたほうがいい」「こうしたほうがいい」と語り合うのは楽しく、以来、毎年OB会でバンドを組んで演奏するようになりました。私以外のメンバーは首都圏在住なので私は東京へ出向いて練習に参加し、時にはぶつかることもありましたが、続けてきて本当に良かったと感じています。
2024年秋、新しい虎ノ門ヒルズステーションタワー48階の「Tokyo Node」のステージで、KALUAの70周年記念ライブが開催されました。東京の中心部に浮かぶ素晴らしいステージで、私たちはマンハッタン・トランスファーの「Four Brothers」と、ハイ・ファイ・セットの「Diary」を披露しました。
楽器担当の仲間のレベルは高く、ボーカル陣も年齢の割に声がよく出ていたと評価をいただきました。年甲斐もなく難曲に挑戦しましたが、「Four Brothers」はテンポが速く、音程も難しい上に、歌詞が長くてなかなか覚えられませんでした。譜面台に歌詞カードを置いたものの、照明の加減と小さな字のため読めず、スピードを落とせば息が続かないという状況。結果として出来は散々でしたが、なぜか来場していたプロの方々からは高評価をいただきました。
南高でいただいた御縁で今も楽しい毎日です。いつまで続けられるかは分かりませんが、杖をついても車椅子になっても、声が出る限りバンドを続けていきたいと思っています。
1957年 札幌生まれ
駒澤大学卒業後、東京ブラウス㈱海外事業部
(株)三兼 代表、コスモ 代表を経て経営コンサルタントに転身
現在は監査法人事務局に勤務し
YouTube チャンネル「社長大学」出演中
第106号 の記事
2025年3月1日発行