六華だより

六華だより100号の歩み その4=31~40号

第103号

 1972年(昭和47年)の創刊から半世紀を過ぎた会報誌「六華だより」。連載第4回は1987年(昭和62年)10月10日発行の第31号から1992年(平成4年)3月10日発行の第40号までを振り返ります。

会報発行委員会

東西南北四高 合同同期会

 第31号発行から遡ること2カ月、1987年8月14日。札幌サンプラザで4高校合同同期会が開かれました。集まったのは卒業35周年を迎えた370人余り。終戦翌年の1946年(昭和21年)、旧制の札幌一中、二中、市立中、庁立高等女学校、市立高等女学校の最後の新入生となり、学制改革のあおりで4年もの間、最下級性として過ごした後、1950年の学校再編に伴い札幌南、札幌西、札幌北、札幌東の4高校に分かれて1952年、各校の2期生として卒業した方々です。会の様子が第31号に紹介されています。
 竹山実さんは一中に入学し、市立高等女学校だった東高校に移りました。「初めて経験した男女共学に面食らったものだったが、それも今にして思い出せば懐かしい出来事だ」。畠中貞夫さんは一中から南高校へ。「突然の男女共学に戸惑いながらも、何と華やいだ毎日であったことか」。同期会では、札幌を拠点に活動していたグループサウンズ、ザ・キッパーズの懐メロを聴きながら、在りし日の思い出話に声を弾ませました。事務局を務めた中本毅彦さんは、改めて4校が「きょうだい校」であると実感したとのこと。「さらにこの絆を強めたいものである」と締めくくっています。

合同同期会の様子を紹介した31号の紙面。会の様子は新聞やテレビでも紹介された

紙上訪問 がんばってます

 社会の一線で奮闘する同窓生に登場してもらう連載企画「<紙上訪問>がんばってます」。記念すべき第1回は1988年(昭和63年)10月10日発行の第33号に掲載されました。
 当時のJR北海道函館支社長、青山繁樹さん(南4期)が「函館の地域における経済の活性化を目指して」と題し、その年の3月に開業した青函トンネルと、80年の歴史の幕を下ろした青函連絡船が引き起こした「連絡船フィーバー」について記しています。青山さんは国鉄最後の年の1986年に函館に赴任。1987年のJR発足とともに、廃止が決まった青函連絡船の最後の年を盛り上げるべく、イベントの展開に注力しました。狙いは函館に滞在する観光客を増やし、地域活性化につなげ、その勢いのまま、青函トンネルを新たな集客資源として活用すること。青山さんは「集客作戦は完全に成功し、地元地域への経済効果もかなりの影響をもたらすことができました」と振り返っています。

「新企画」と銘打たれた<紙上訪問>がんばってます の初回連載

 第2回は乙部町長の寺島光一郎さん(南13期)。1983年(昭和58年)から2019年(平成31年)まで、道内の首長では最多選となる9期36年間、町政のかじ取り役を担いました。掲載号は1989年(平成元年)3月10日発行の第34号。寺島さんは町長2期目を迎えた乙部の魅力、とりわけ海の幸やゆり根などの食の豊かさを、紙面いっぱいに展開し、「札幌を朝発てば昼には着きますので、是非おいで下さい」と結んでいます。
 連載はその後、札幌大学教授(当時)の哲学者、鷲田小弥太さん(南10期)、小説家の久間十義さん(南22期)らが登場。政治・経済・文化と各界に根を張る母校の豊かな人脈を生かした読み応えのある連載が続きます。
 第40号では日本最大の山地湿原・尾瀬ヶ原の尾瀬沼のほとりで山小屋・長蔵小屋を経営する平野紀子さん(定10期)が筆を執りました。山小屋の三代目であった夫・長靖さんと札幌の職場で出会い、環境破壊に苦しむ尾瀬に「何も知らず、嫁にきたのです」。長靖さんは、観光道路の建設に反対するため発足間もない環境庁に直訴。尾瀬を貫く道路建設は中止されましたが、運動に成功したのもつかの間、過労のためでしょうか、36歳の若さで遭難し、亡くなりました。平野さんはつづります。「幼い三人の子供たちと、その日から、私の生きる斗いが、始まり、丁度二十年がたち、尾瀬は日本を代表するもっとも、美しい場所に変わりました」「永遠の、人類の宝として、守っていかなければと思っています」

■文武での活躍

 六華だよりでは、現役の高校生の活躍も随時、紹介されています。第31号では全国高等学校空手道選手権大会(1987年8月)の女子組手で3位に輝いた水柿尚子さん(南38期)=当時高校3年=が部活に打ち込んだ日々を振り返りました。全国大会では「勝つことよりも自分らしい試合をすること」と自らに言い聞かせ、部活を通して「物事を冷静に、そして広く見えるようになり、自分のことも少しずつ見えてきた」と記しています。
 この年8月に東京で開かれた全国高等学校将棋選手権大会では、当時高校2年だった菊田裕司さん(南39期)が優勝しました。大会前夜に食べた刺身が原因で対局中は腹痛にも苦しめられましたが、決勝では120手で相手に投了させました。ちなみに優勝の賞状は日本将棋連盟会長名で発行されます。十五世名人、大山康晴会長の名前が時代を感じさせます。
 母校で学ぶ生徒たちの活躍は、同窓生にとってはうれしい知らせ。1988年(昭和63年)10月10日発行の第33号は囲碁大会の団体戦で全国5位となった喜びや、陸上でインターハイに出場した思い出が記されています。1989年(平成元年)10月10日発行の第44号では当時の野球部のエースが部活を通して成長した姿をつづっています。