60年安保と小説「高校生たち」
高岡(綿谷)美智子(南12期)
札幌南高校、ずい分遠い昔のことである。12期の私たちは1959年の入学、1962年の卒業なので、ちょうど60年前の卒業生ということになる。当然ながら学校の校舎も周辺の風景も、大きく様変わりしている。 しかし、記憶の中の断片的な映像は、いまなお親しい幾人かの友人たちの、若き日の面差しとともになお鮮明なものがある。それは多分1960年の、日本を揺るがした安保闘争を高2で体験した私が、記録を残そうと意図して、小説「高校生たち~安保闘争の中の~」を書き残したことに関連しているかもしれない。書くことは、記憶を定着させ、時として増幅させることがある。
【60年安保闘争】
安保闘争? それって何?という人が多くなっている昨今だが、戦後最大の規模で大衆が動いた反政府抗議のデモ活動だったと言えるだろう。戦後日本は、はじめは米軍GHQの占領下に置かれ、1951年のサンフランシスコ講和条約で一応の独立を回復したが、それに付属した日米安全保障条約の改定を巡る議論が前年の1959年から沸騰していたが、60年1月、時の首相岸信介が渡米し新安保条約に調印、6月のアイゼンハワー大統領の訪日を決めてきたのであった。国会審議が紛糾する中、自民党は5月19日衆院に警官隊を導入、反対する社会党を排除して強硬採決に及んだ。そのまま1ヶ月経過すれば、法案が自然成立する、という状況下、翌日からの反政府、反安保の大衆行動は一段と大規模で激しい様相を呈し、国会は連日デモ隊に取り囲まれた。東京ばかりではなかった。札幌でも、良くも悪くも安保闘争の先端を担った全学連=道学連が過激なデモで抗議をアピールし、当時は極めて行動的だった総評の、左翼的労働組合、国鉄、炭労、北教組などを核として、多くの市民団体が統一行動に立ち上がっていた。6月15日の国会周辺での全学連と警官隊とのもみあいの中で、東大の女子学生樺美智子が命を落とした。岸内閣は退陣を表明し、予定されていたアイゼンハワー米大統領の訪日は中止となった。 しかし新安保条約は、周知のように自然成立となり、60年後の今も私たちはそれのもとに暮らしている。
当時,高校2年だった私たちは、この国会での審議打ち切り・自民党による単独採決を暴挙=議会制民主主義の危機ととらえ、「高校生でも何か意思表示したい」という思いで参加した。 市内の高校の横の連絡会が出来て、統一行動の端っこに「札幌安保阻止高校生連絡協議会」という名前を連ねたのだった。が、高校生のデモ参加は、学校でも家庭でも大きな軋轢を引き起こした。
【小説「高校生たち」を書いた日々】
その嵐のような日々を小説に書こうと思ったのは、周囲のあまりにも早い方向転換に反発めいた違和感を抱いたせいかもしれない。修学旅行で初めて東京に行き国会議事堂を訪れた時、大きな声で話すことも憚られるような権威に満ちた静まりに、テレビで見たつい数ヶ月前の、樺美智子さんが亡くなった日の映像が思い出され、なにかやりきれない思いが、胸に突き上げてきたのだった。こうしてみんな過ぎ去ったこととして忘れ去られていくのか?という焦りのような、怒りのような思いが。本当に、新安保条約自然成立とともに、安保反対に結集した熱はすっかり消え、社会全体がくるりと向きを変えて、池田内閣の掲げた「所得倍増」という新しい目標に向かい始めたかに思われた。一方、学生運動はというと、大学の授業に出て学問研究の場に戻った者もいたであろうが、激しい運動に明け暮れたものほど、その反動で敗北感、無気力にさいなまれ、責任を他者におしつけては内部抗争が生まれたようだった。
文芸部に属し、漠然と小説を書きたいと思っていた私は、自分の経験を忘れないうちに書こう!と決意した。幸い日記を書く習慣があって、あのめまぐるしい日々も学校での出来事は記録していた。それをもとに事実を記録しようと心がけた。しかし、当時私は生徒会副会長という立場にあり、高2から高3の日々は忙しく、書き出したものの進まなかった。本格的に書き出したのは、高3に進級する春休みだったと思う。途中までの分を文芸部の親しい仲間に読んでもらい、大いに励まされた。原稿用紙を使わなかったのでよくわからないのだが、約300枚の小説を書き上げた時、やっと書き上げたという達成感、やっと心おきなく受験勉強に入れる、という安堵で、私は1961年4月29日と脱稿の日付を入れた。それから50年以上たって不思議な巡りあわせから、3度目の出版の話が持ち上がったとき、高3の同級生である夫は 「客観的に見て、『当時の高校生の活動の貴重な記録』というキャッチフレーズは許されるよ」と言ったが、「南高校百年史」が、参考資料に使ってくださっているのを知って、記録の役割をいくらかは果していたことをうれしく思った。
【1960年代、2度の出版】
ノート3冊に清書された草稿が友人たちの手から手へ渡り、そしてどこからともなく出版の話が持ち上がったが、具体化したのは、文芸部の2年先輩、当時札幌教育大の学生だった中俱夫さんのおかげだった。文芸部顧問の工藤信彦先生の秘かなご支援をいただいたとも聞いている。今とは隔世の感があるが、ワープロさえない時代、ガリ版刷り500部が最初の出版だった。この時は本名ではなく、北村明子というペンネームを使った。1961年7月、高3の夏休みの前に本が刷り上がってきたが、読書会などやったことはなく、やっと遅ればせながら受験勉強の体制に入っていた私に、感想文などもあまり届かなかった。一部300円で売られたと記憶しているが、満腹や(当時、南高の近くにあったラーメン屋さん)の学生ラーメンが50円?だった時代、こんな価格で本当に売れたのだろうか?今となっては記憶にまったく自信がない。
2度目の出版は、その6年後、同じく中俱夫さんからもたらされた。太平出版社という会社が、高校生の文芸作品のアンソロジー 「高校生の生活と証言」という3巻本を出す計画で、それに推薦したいので、了解を得たいという話だった。私は当時北海道大学文学部大学院生だったが、政治的活動からは距離をおき、女子学生にとっては、今とは比較にならないほど閉塞的な進路に悩んでいたが、修士論文を書くことが最大の関心事だったので、60年安保は気持ちの上で遠い過去に思えた。了解の印を押したものの、そんな本が広く読まれるとも思えなかった。ただそのとき、出版社から、本名を使ってくださいと要請され、それは後々まで作者の著作権を守るためです、と説明されたことが記憶に残った。そして、このとき本名を用いたことが、60年安保から59年後の、3度目の出版につながったのだから不思議である。これら60年代、学生時代の2度の出版に関しては、私は承諾のゴーサインを出しただけで、申し訳ないほど受け身で、 校正すら何もした覚えがない。また金銭的な授受も全くなかった。
【捨てられる運命の本が出会った奇跡】
50年近い年月が流れた。2015年、札幌南高の六華同窓会事務局から分厚い封書が届いた。広島市の長束教会牧師、井上豊さんが小説「高校生たち~安保闘争の中の~」の著者、綿谷美智子の連絡先を探しています。回答してもいいですか、というもので、同窓会に問い合わせた、井上豊牧師の手紙が同封されていた。
それによると、井上さんは前任地の出雲市の図書館で、不要図書「ご自由にお取りください」の棚に並んだ本の中から、太平出版の「高校生の生活と証言」第3巻を持ち帰った。その中で、60年安保の中の高校生を描いた小説に感銘を受け、こんなことが実際にあったのかと驚いた彼は、もっと広く読まれるように、出版を考えるに至ったという。 太平出版はすでになくなっていた。彼は高校時代、札幌に住んでいて、60年安保の頃、札幌市の高校で最も活動的だった札幌西高校を卒業していた。ただし私たちの13年後の札幌で、おそらくは冬季オリンピックの開催地として、華やかな北の都になっていて、60年安保のデモ風景は想像しがたいものだったかもしれない。
再出版を促す井上さんのご提案に、大変びっくりすると同時に、私は深く心を動かされた。図書館が廃棄処分を決めた一冊の本を救い出し読んでくれた人がいたことに。そして、60年もの時を隔てて、あの私たちの純真にして真摯な行動に、そこに到る心情に感動してくれる人がいたことに。まったく見ず知らずの、世代も異なる人が、著者を探し出す行動に踏み出したきっかけは、捨てられる運命の1冊の本との、奇跡のような出会いだった。
こうして、井上牧師の多大なるご尽力のおかげで2019年夏、3度目の出版が実現した。振返ると60年代2度の出版は、中俱夫さんの、半世紀以上を経ての再出版は井上豊さんのおかげであった。小説「高校生たち~安保闘争の中の~」は、なんと幸運な本なのだろうか。あらためてお二人に感謝の思いを深めている。
【あの頃、集まるところ歌声ありき】
「高校生たち」 の中には、たくさんの歌、歌う場面が出てくる。 いまではおそらく忘れ去られているそれらの歌を、音楽をこよなく愛する井上牧師は、歌の歌詞のみならず楽譜まで集めて収録してくださった。あの頃、ピアノに憧れても楽器もなく、自前の声のみが楽器だった私たちは、集まるとよく歌った。多分、娯楽が少ない時代で、歌声運動の高まりが背景にあったのだろう。なかでもロシア民謡が良く歌われていた。
また、デモ行進中も、歌声は欠かせなかった。今は学生のデモ隊に出くわすこと自体まれだが、スローガンを怒鳴るシュプレヒコールは聞こえても、歌声は聞こえてこない。もっとも今では、あの頃よく歌われていた “~立て、飢えたるものよ!”とはじまる 「インターナショナル」 や 「民族独立行動隊の歌」などは、歌詞自体が古めかしくヒロイックで、多くの学生はこんな歌詞を歌っては気持ちが白けるかもしれない。
卒業後、地元の北大に進学したが、大学のサークル活動でもよく歌っていた。恵迪寮の寮生たちは、独特の前口上を述べ、たとえだみ声であっても朗々と歌うので、周りも自然に一緒に歌うようになり、おかげでたくさんの寮歌を覚えた。
高校生も大学生も、いつころから歌わなくなったのだろうか。なぜなのだろう? あの頃は、はるか遠い記憶になったが、高く透明な、ちょっと硬い少女期の自分たちの歌声が、今もふと耳によみがえる。
【若い世代の皆さんへ】
2022年、今年に入ってロシアによるウクライナ侵攻が始まった。それ以来、世界の風向きがこれまでなかったほど戦争に傾き、戦争への恐怖から軍事同盟、軍備拡張論が高まっている。誰も戦争は望まない。私たちは、戦争のない77年のおかげで、高校の同窓生に戦争の死者・行方不明者はいない。親の世代との大きな違いである。政治に関わることは市民の権利、それは人がどんな人生を送れるかに深く関わっている。大いに議論し、時には行動する青春を過ごしてほしい。
高岡(綿谷)美智子
(たかおか(わたや) みちこ)
1944年札幌生まれ。
北海道大学文学部修士課程修了。ECC英会話教室講師を長年務める。
エスペランティスト。 2003年、ハイチの支援団体「ハイチの会セスラ」を設立、代表としてハイチの教育支援に関わっている。
第101号 の記事
2022年10月1日発行