六華だより

見たくないものは見えない

第101号

小野江 和之(南40期)

 人間、見たいものは見えるけど見たくないものは見えません。

 もし目の前になにか、物理的に確固として存在するモノがあった時、それを見えないという人はいなさそうに通常は思います。たとえば赤いリンゴがテーブルに一つ置いてあった時、普通はそれが視野に入った時点で「あ、リンゴだ」となります。しかし、それが見えたと「その人」が認識しないことには「その人」にとっては「見えた」ということにはならないのです。他のものに見えている場合もあるでしょうし、そもそも何も見えていないことになっている場合だってあるでしょう。とにかく、「その人」が「見えた」と認識しないことにははじまりません。
 まず、リンゴがどんなものかを知らなければ、見たものをリンゴであると認識することは難しいでしょう。リンゴを見たことがあるか、知識として大まかにでも「大抵赤くてほぼ丸くて大体これくらいの大きさで」と知っているかどうか。もし見たことがなく事前情報も大きく間違っていたら、リンゴが目の前にあったとしてもそれをリンゴと認識することは難しい。
 紛らわしいルックスのもの(青リンゴとか極端に大きい・小さいとか)も誤認されそうですが、まあそこは論点ではありませんので。
 またヒトには色々な事情で「こうあって欲しいモノ・コト」「欲しくないモノ・コト」があります。損得勘定や単なる好き嫌い、様々あるでしょうが、好ましいモノやコトに対しては肯定的受け止めから積極的に「ソレ」であると認識しようとする力が働きますし、逆に好ましくないモノ・コトに対しては否定的な受け止めとなり、そうであると認識することに消極的、場合によっては存在を否定してしまうことすらあるでしょう。意識下であれ無意識であれ、なかったことにしてしまう。
 世の中には楽しいこと楽しくないこと色々あります。そうであって欲しいことも、そうではないことも。嫌なことは忘れてしまうというのはヒトが自分の心の健康を保つために備わった重要な防御機構ですから、その働き自体はイキモノとしてむしろ不可欠です。しかし一方で、確固として存在する「何か」について、「なかったこと」にしても決してなくならない・解決しない事柄で、「私には見えません」とやってしまうことは果たしてどうなのだろうと。物事には、なかったことにしていいものとそうではないものがあるのです。全てが同じではない。
 たとえばTwitterなどを見ていると、なんでもかんでもなかったことにしたがる人が沢山います。あの問題もこの問題も同じ考え方や解決方法でいいと思っているのかどうなのかわかりませんが、そもそも「見えません」のスタンスに終始する。陰謀論を持ち出す人たちが大抵これ、というかむしろ典型でしょうかね。
 本当は実社会にもそういう人たちが少なからずいるのでしょうが、SNSと比べるとむしろ目立ちません。おそらく目立たないだけで、SNSで匿名だと臆せず主張するってことなのだと思います。良くも悪くも日本的です。
 まずそこには問題が存在するということを認識したうえで、もしその認識がずれていたらどのように擦り合わせていくか、さらにどのような解決方法を選択するのかといった段階であれば、まだ議論の余地もあると思います。しかし、そもそも認識していないとなってしまうと格段に難しい。誰かTwitterにいるような「そういう人たち」に、そのように(私見えませんと)主張すべしと入れ知恵している人でもいるのかと勘ぐってしまいます。暖簾に腕押しにしかならない、そこを狙っているのかと。
 世の中には本当に、解決を迫られている問題が山ほどあります。急ぐもの急がないもの、積極的介入を要するもの要しないもの、様々あると思います。でもぱっと見ただけではわからない場合が多い。そこで嫌だからといって逃避するのではなくとりあえず向き合って考えてみる、まずはそこからなのではないかと思います。そうやって考えたうえで、次に一体どう解決していくべきなのかという先のレベルの話になるのではないでしょうか。

 今回はその手前の基礎的なお話、まずは物事をちゃんと見(ようとし)て認識しましょうよ、ということでした。これがないとはじまりませんので。認識の差であれば後からなんとでもなります。対話も出来ます。でも見ようとしない人とはそもそも会話が成り立ちませんからね。勿体ないことだと思います。


小野江 和之(おのえ かずゆき)

基本イロモノですが、本業は呼吸器内科医です。1年ほど前から訪問診療のクリニックに勤務、今春二号店(新道東)の店長になりました。常勤医2人、非常勤医1人、看護師3人の小さな所帯です。事業拡大中です。