高校生から見た「自然」ということ
稲田 知也 (札幌南高校3年)
第66回NHK杯全国高校放送コンテストにおいて、僕は放送局の仲間とともに北海道札幌南高等学校学校林のドキュメンタリービデオを作成しました。大会成績は率直に言って芳しいものではありませんでしたが、今回、六華だより執筆の機会をいただいたため、僕がこのビデオの制作、取材などを通して感じたことを文章に起こしたいと思います。
僕が制作中に一貫して持っていたテーマに、「高校生としての自然観」というものがありました。僕は、高校生という貴重な青年時代には、一般的なものとは少し違った自然観というものを感じられるのではないかと思うのです。社会に浸る前の、子供の延長のような視点から捉える、一方、半分大人でもある価値観は、言葉にならないほど繊細で膨大なものです。
今日、「自然を大切にしよう。」「現代人はもっと自然に関心を持とう。」というような一般的自然観は、むしろ日常的に聞く理念となりました。それは確かなことではあるのだと思います。でも、きっとそのような言葉は、僕ら高校生の大半には響きません。
それはなぜかというと……実際の意見が良い例になるでしょう。今作品中では現役の本校生に学校林の散策会というイベントを通して感じたことをインタビューするカットがあります。そこでは「森林に対する暗くて怖い場所というイメージが変わった。」「ただ商業用に整備されている森林だと思っていたがそうではなかった。」などという感想が出ました。つまりこれは、そもそも高校生の多くと自然の間には距離感があるということです。そのような中で、「大切にしよう。」「関心を持とう。」といった半ば目標のような理念を掲げられても、実感はそこにはありません。
この先、若い世代が自然の管理を担っていく必要があるのは明白だと思います。そこで、本当に必要な高校生へのアプローチは「怖い場所」から「親しい場所」、「非日常の場所」から「日常の場所」といったように、自然との関係が能動的となるような機会を与えることで、より鮮やかに「高校生としての自然観」を持ってもらう事ではないでしょうか。そして、それは彼らが大人になった後にも形を変えて残り、社会全体の価値観をささやかに揺り動かすものになり得ます。
上記でも述べた通り、学校林では散策会というイベントを通して、高校生に自然の力を実感してもらう活動をしています。たとえ一人だけでも、ほんの少しでも、何か自然に対する親近感が生まれたのなら、その活動の、その影響は確実に有意義だと言えるでしょう。
では、そもそもなぜこのようなギャップが生まれているのでしょうか。
それは、人々が自然との関係を見誤るようになったからではないかと僕は思います。科学技術が発展していく中で人々は、本来、動物である人間にとって本質的な母体で、住処でもある自然を、定量的に捉えるようになり、生活から離すようになりました。だからこそ僕たちは、自然的な存在でありながら、森や海などに訪れては自然を感じるといった、不可思議な体験をします。
ですから、「自然世界と人間社会」が構造として成り立つことも、さらに言えば「人間が自然に内包される」という関係すらも正しくありません。自然というのは、人間が作ったものではなく、もともと世界に備わっていた先行的なものですから、言うなれば、人間とは自然が持つ一側面に過ぎないのです。
その中で、人間と自然との連帯関係などと二元論的に議論するということは、まるで人間の心と身体は別世界にあると考えるようなもので、身も蓋もない話です。ここで本当に議論すべきは、人間がいかにして自然の一側面としての自覚を取り戻すのか、つまり、目標に掲げるまでもなく、生命として存在する上で課される、自然に対する責任を思い出すかということであるはずではないでしょうか。
しかし、そのような認識はされていないのが現状です。そのため、自然的な存在であるという状況を忘れて、距離感を無視した「大切にしよう。」「関心を持とう。」といった形而上の理念が生まれるのだと思います。こうして、誤った自然の認識は「高校生としての自然観」の自由度を殺すことさえあります。
高校生が考えることが、多少馬鹿げていて、過激であったとしても別にいいと思うのです。だって僕たちはまだ子供なのですから。社会が正当に機能していれば大人な考えは大人になるタイミングで問題なく身につくはずです。しかし、子供特有の発想は期間限定のものですから、子供が子供である内に、多様な思想を蓄えられるような環境を作ることが、まさにこれに目を通している皆さんや、数年後の僕たち、つまり大人の責任なのだと思います。
以上、札幌南高校放送局、SBCからお送りしました。
第66回NHK杯全国高校放送コンテスト応募作品キャプチャ画像より
第95号 の記事
2019年10月1日発行