六華だより

私と札幌南高

第95号

高橋 雅二(南6期)

南高への道

 私は、昭和12年7月に札幌市で生まれた。父はいわゆる転勤族で、私も父の転勤に伴い、北海道の各地に移り住んだ。
 栗山で国民小学校に入学し、2年生のとき終戦を迎えた。5年生のときに深川に移り、深川中学校2年のときに北海道学芸大学旭川付属中学校に転校し、昭和28年同校を卒業した。同年4月、旭川北高等学校に入学したが、直後に父が札幌に転勤となり、私は受け入れてくれる高等学校が決まるまで父の知人宅に居候させてもらうこととなり、父からの連絡を待った。
 昭和28年の暮れに札幌南高の転入試験があり、それを受けて、翌年1月の第3学期から転入した。後に聞いた話であるが、学校の担当者によれば(当時札幌の高校は学区制が敷かれたばかりで)、南高は「全道各地からいろいろな名目で転入を図る者が数多く」、私の父の「職場の転勤」という名目の真偽が疑われたらしい。担当者からは「地方から転入する者は学力では到底ついていけない者が多いので、せっかく旭川北高に合格したのであるからそのまま続けた方が良いのではないか」と言われた由。私は家(社宅)が学区内の南14条にあるので南高が自然な選択と考えていた。結果として、私は小学校、中学校及び高等学校の全てで転校を経験した。

授業の思い出

 さて、晴れて南高に転入を果たしたが、雰囲気は自由で、あまり伝統とか規律の締め付けは感じなかった。転校生としての差別もなかった。また、授業の内容も「地方から出てきた者はついていけない」という感じもしなかったが、教師と授業のレベルは高いという印象は受けた。
 例えば、数学の堀内先生は大学を出たばかりの若い先生であったが、その授業から論理的思考の素晴らしさに魅せられ、数学が好きになった。後に英国ケンブリッジ大学で経済学を勉強した際、数理経済学の科目を取ったが(「数学で考える」のは、日本語も英語も関係なく結論がきちんと出てくる。それが数理経済学を取った理由であった)、南高時代に学んだ基本的な考え方が役に立ったと思う。
 生物学の小野先生からは、遺伝の驚異的な仕組みに目を開かせていただいた。また、自由選択語学教科としてドイツ語学科があり、新鮮で新しい世界を知るという喜びを覚えた。その後、大学ではフランス語を取り、卒業後留学したのは英国であったので、ドイツ語を教室で勉強したのはこのときだけだ。後年色々な場面でドイツ語と会う機会があったが、何とか切り抜けられたのはこのときの基礎があったのだろうと思う。
 南高の卒業証書を頂くため登校した際、山口末一校長先生から「君はどこか塾に通っていたのか?」と聞かれたので「通っておりません。南高の授業だけで十分でした」とお答えした。すると山口校長先生は「そうか。他の学生のいい励みになる」とおっしゃられた。

音楽への想いと大学受験

 私は性格的に人との付き合いはあまり上手ではなく、一人で本を読んだり音楽を聴いたりして自分の世界に閉じこもり気味な傾向があり、父から欠点として厳しく注意されていた。小学校初年頃からピアノを習っており、将来音楽関係の仕事で身を立てることができたらと漠然と考えていた。志望大学もはっきり決め兼ねていた。
 旭川北高時代は合唱部に入っていたが、南高に移ってからは音楽愛好者のクラブ活動に参加するタイミングを逸してしまい、ひっそりとピアノの練習だけは続けていた。3年生のときの文化祭において、ピアノ独奏の機会を与えていただき、ショパンの「幻想即興曲」と「スケルッツオ第2番」を弾いた。しかし、これで自分の限界を悟り、このときを最後に職業としての音楽家への未練を断ち切り、通常の大学受験準備に専念することとした。結局は実技試験がなく、筆記試験だけの東京大学を受験することとした。

東大でお世話になった大先輩

 昭和31年4月、東大入学のため上京したが、住む場所として北海道出身学生のための学生寮である「北海寮」に応募した。そのとき面接者として座っておられたのが当時「財団法人北海道在京学生後援会」の理事長であった大久保禎次先生と理事の大沢竹次郎先生であった。いずれも南高の大先輩(明治34年卒・中5期)で、北海寮の創立者でもあった。大久保先生は東京六華同窓会の創立者でもあることを後で知った。
 北海寮に入寮を認められて以来、両先生には大変お世話になった。大久保先生とは寮の行事でお会いする他、寮の同僚と共に新年のご挨拶などに代々木のご自宅に伺った。また、大沢先生のご自宅は駒場にあったので、授業の帰りによく立ち寄らせていただいた。

外務省時代、同窓生との交流

 大学卒業後、昭和36年に外務省に入省して以来、平成13年に定年退職するまで40年間奉職したが、その勤務パターンは数年間の国内勤務(外務本省や国内政府関係機関等)と在外勤務(大使館、国際機関代表部等)を交互に勤めるというもので、その半分以上の約25年は外国勤務であった。
 外務省では、先輩に三宅和助さん(中53期)と熊谷直博さん(南1期)がおられたが、お互いに日本と外国との間を行ったり来たりする生活をしており、仕事で出会うということはあまりなかった。
 現役時代は、毎年札幌で開催されていた同期会には、まず出席することはできず、東京で開かれていた東京六華同窓会の会合にも昭和55年ごろ1度出席しただけであった。正直に言って、毎日の仕事をこなすだけで「課外活動」の余裕は時間的にも精神的にもなかった。
 在外では、ハワイ及びオーストラリア勤務の際は、南高の同級生が訪問団を組織して訪ねて来てくれた。その他、パリなどには同級生が個人で訪ねて来たことがあるが、流石に、イラン・イラク戦争下のテヘラン時代には訪ねてくれる人は誰もいなかった。

六華の結晶、絆の堅さ

 平成13年の退官後は日本に落ち着くことになり自由の身となった。私としては、長い間、故郷にご無沙汰していたこともあり、それ以降、毎年、墓参など私的な行事と併せるなど工夫して、南高の同期会に出席するようにしている。また、公益財団法人在京北海道学生後援会の役員や札幌にあるコンべンションセンターの名誉館長を引き受け、札幌・北海道との絆を保つよう努めている。
 東京六華同窓会の総会には、同期生の誘いもあり平成28年の会合に出席した。私の期は年配者のテーブルで、後輩の諸君が非常に丁寧かつ親切に接遇してくれるので大変恐縮した。
 この度「六華だより」に寄稿の依頼を受け、ウェブサイトをチェックしたところ、南高の卒業生がかくも多方面で活躍をしていることに今更ながら驚いた。現役時代に六華同窓会・東京六華同窓会の活動にもう少し関与していれば私の人生も一層幅広く豊かになっていたに違いないと思うところ大である。

高橋 雅二 プロフィル

1937(昭和12)年札幌市中央区生まれ。
54(昭和29)年、旭川北高等学校から札幌南高等学校に転入。61(昭和36)年東京大学法学部卒業後、外務省に入省。63(昭和38)年ケンブリッジ大学卒業(MA)。

外務本省の他、在英大使館その他いくつかの在外公館(フィリピン、オーストラリア、スイス、イラン及びハワイ)に勤務し、経済協力開発機構(OECD)代表部特命全権大使、在オーストラリア特命全権大使を経て、2001(平成13)年に退官。現在は東京都在住で、(公財)日本台湾交流協会顧問、(公財)北海道在京学生後援会顧問、(公社)日・豪・ニュージーランド協会名誉会長などを務める。