恩師からの便り〜親子三代、南高とつながる縁
尾尻 久(昭和二十六年四月〜昭和三十八年三月在職)
教員時代の思い出
私は昭和26(1951)年4月に時の校長山口末一先生のお招きを受けて、広島から札幌南高校に赴任して参りました。昭和38(1963)年3月までの12年間お世話になりました。社会科の免許状も持っていたので、人文地理の授業を受け持ったこともありましたが、専門は地学でしたから、2年目からは地学だけの授業に専念することになりました。受け持ち時間の関係で物理を担当することもありましたが。当時まだ地学は未熟な教科で、現在のように「地球を科学する」総合的な視野を持つ教科であるという概念がなく、天文・気象・海洋・地震・火山・地質・古生物・岩石・鉱物学などバラバラの知識を覚えるだけの、面白くない教科であったように思います。理科の中で物理・化学・生物は学問的にもメジャーな色が濃く、地学はマイナーで地味な教科で、しかも大学入試の受験科目として選択する生徒が少なく、高校を卒業したばかりの未熟な私にとって気楽に教えることができました。優れた先輩や同僚、生徒のおかげで、教師として、また、一人前の人間として育てていただいたと感謝しております。
当時の教員の構成は、私のように高等学校教師になるための専門教育を受けた者は少なく、例えば師範学校を卒業後、中等教員資格試験を経て中学校の教員になった者が多かったです。この資格試験はかなり難関であったと聞きます。今日と違って、全て独学で修めなければならなかった時代です。何しろ皆さん勉強熱心でありました。職員室の雰囲気がそうでありました。余暇を使って大学の研究室に通い、それが実って大学の先生になった人もいます。三上日出夫先生は昆布に関する研究が認められて「理学博士」の学位を修得されました。「自学自修」を実践された人です。私も見習わなければと思いました。中学校時代の恩師が「教師になってよかったと思うことがある。それは自由に本が読めること」であるとおっしゃっていましたが、多くの先生方は個性的で、この「自学自修」の気持ちを込めて指導に当たられていたと思います。所詮受験勉強は「自学自修」ですからね。いや、生涯「自学自修」です。
息子、孫 三代続く六華の絆
さて昭和48(1973)年4月に長男が札南に入学してから「関係」が復活しました。学校紛争の嵐も吹き抜けて、校内も穏やかな雰囲気を取り戻していたようで安心しました。長男は、同時期に他校から赴任してきた石切山稔治先生とハンドボール部の立ち上げに参加し、部活動で高校生活を謳歌したようであり、長男の人格形成に石切山先生が大きな影響を与えてくださったことは確かです。
平成15(2003)年から孫(男子2 女子1)がお世話になることになりました。男の子2人は野球部で活動し、全道大会に出場するまでになり、女の子は吹奏楽部での活動で、みんな高校生活を堪能したのではないかと思います。「暇になったおじいさん」は、野球部の公式戦はもちろん練習試合までも観戦に出かけました。孫たちと共に「甲子園への夢」を見ていました。残念ながら4度目の出場は果たせませんでしたが、高等学校のクラブ活動の理想の姿を見せられたと思っています。孫たちは野球部の活動が大学の受験勉強の妨げになったとは思わないと言っています。連帯感や協調性が培われ、多くの友人を得たことも大きな収穫だったようです。かつて野球部を監督された小野寿満男先生が「部員数が少なくて練習もままならない」と嘆いておられました。「野球をしたい」という希望を持つ生徒は多くいたそうですが、まずは親が反対し、相談を受けた担任も同調することが多かったようで、部活動はあまり盛んでなかったように思います。
時代が変わりましたね。今や野球部員も50名近くいるようですね。この数は全校生徒数(定員960名)の約5%ですよ。男子がほぼ半数ですから、男子の10%が野球部員です。今日、国立大学などへの進学者も多くなり、受験勉強と部活動が両立できるということで、野球部を目指して札南に入学してくる生徒もいるそうです。
6期生との交流
札南6期同期会が最初に開催されたのは、昭和55(1980)年9月26日でした。私は3年9組を担任していた縁でその同期会の招待を受けましたが、釧路の高校に勤務していた仕事の都合で欠席いたしました。爾来39年、2019年6月23日に40回目が開催されましたが、その度に招待をいただきました。4度欠席しただけで36回も出席させていただいております。大事に遇していただいてありがたく思っています。同期会がこんなに長く催されているのは全国でも珍しいのではないかと思います。私の母は97歳の生涯を全うしました。祖父は96歳を生きました。私は98歳まで頑張らなければなりません。あと9回の同期会が楽しみです。
私は平成2(1990)年3月に教職をやめました。その年の同期会で「師弟関係は解消して、ただの級友の関係でいい」と提唱しましたが、受け入れてもらえませんでした。「先に生まれた」から先生と呼ばれることに甘んじようと思いました。近年は「先ずは生きとる」から先生と呼ばれても仕方ないかと考えております。
私は札幌南高校に深い縁を感じております。教師であったことを感謝しております。♪ ああ札南はわが母校 ♪
尾尻 久 プロフィル
1930(昭和5)年広島生まれ。51(昭和26)年広島高等師範学校卒業、同年4月〜63(昭和38)年3月北海道札幌南高等学校教諭。北海道立教育研究所付属理科教育センター 研究職、北海道教育庁 指導主事、北海道石狩南高等学校校長などを歴任。90(平成2)年に定年退職
第95号 の記事
2019年10月1日発行