西村彩子(南43期)〜3人のカメラマン〜
師匠とオフィシャル撮影した20万人ライブから18年後の同じ7月31日、ゲリラフリーライブを敢行したGLAYライブにて。師匠の写真の1999バックステージパスと。
とても可愛がって頂いたGLAYメンバー、2014年のTOHOKU-EXPO写真集の撮影に続き、18年後も一線に立つ彼らを未だカメラマンとして撮れる自分が嬉しい。
私が生まれる前の両親の写真。ここがどこで、いつなのか今となっては知りようも無いが、1枚を大事に写る2人の表情と包む時代の空気を掬ったこの写真から、親としてではない2人の若者に想像が広がる。いい写真だ。
日々スナップ『誰かの記念日おめでとう なんでもない日おめでとう』
もし君が忘れてしまってもいいんだ。
きっと私、忘れずに憶えているよ、なんでもない今日の君のこと。
「カメラマンの西村です。」そう名乗るようになって、今20年目になる。
今回、六華同窓誌に載せて頂けると云う事で頂いたお題の一つ『写真家になろうとした理由』。自身を振り返りながら、「はてカメラマンとは何を指すのだろうか?」そんな事を考えている。カメラマンとは『写真を上手に撮る技術者』を指すのだろうか。
ざっくり経歴を述べれば、高校から東京の服飾専門の4年制大学へ。カメラマン事務所を2つ経て、1年後現在の師匠に弟子入り。アシスタント兼カメラマンとしておよそ5年働き、28歳で独立し今に至る。現在は雑誌や広告をメインにタレントのポートレートを撮る事を主とするカメラマン(正確にはフォトグラファー)である。
私が4歳の誕生日に書いた人生最初の将来の夢は『しゃしんやさん』。カメラマンになりたいと夢見てた子供ではないけれど、振り返れば会社組織で働こうと考えた事はない。働きたくない!ではなく働く姿を想像した事がまるで一度も無いのである。
ちなみに父親は普通にサラリーマン、母親は主婦しながらのパート、兄姉もいる裕福ではない普通の家庭だったけれど、自分は自分一人で働いている将来の自分の姿を子供の頃から知っていた様な気がする。
そんな私にとって『カメラ』の原点はミノルタを構えたお母さん、『写真』の原点は自分で焼いた美しい写真ブックを見せてくれたお兄ちゃん。どちらもアートが好きだった今は亡き家族、私の大事な想い出だ。
小中学校は、記憶力に秀で努力しなくても満点の取れる子で、中途半端なヤンキーから大した苦労もせずに高校に入った。勉強も運動も出来たし人目を引く子供だったけど、正直「何の趣味も取り柄も無いつまらない人間だな。」とも自分で思っていた。
高校では、家庭環境も有って『早く手に職を付け自分の金で生きていく』と、勉強するよりとにかく人を外に広げて遊び踊り語り、いろんな経験を重ねた。大人や力に対し斜に構える私と同時に、滅多に帰って来ない家族のたまの帰宅時に喜んだ顔が見たくて、サプライズを考えつつクールな顔でいつか分からない『その時』を待ち続けた一生懸命だった私も居る。
生きる事や他人、痛みや存在を友達と幾夜も語り、『人』の機微を見つめ続けたそんな3年間。学校に行かせて貰いながらのそんなわがままで贅沢な時間のお蔭で、私は自分の芯が完成したんだろう。
『人を裏切らず、友達を何より大切に生きていく』人が怖くも有り、人が好き、のワタシの始まりでもあり。
マドンナのライブで心惹かれたステージ衣装。そんな1点ものを創る事に憧れ、ファッションで有名な文化女子大服装科に入学。
大学は本当に学ぶ事が多く、教授は優秀な技術の持ち主ばかりで未だに尊敬する。授業も課題も過酷で学生人生で一番勉強したのは間違いなく大学である。そして東京新宿の校舎で際立つ個性とリアルな才能をワンサカ目の当たりにした4年間。
大学4年の最初、半年以上かけて創る有名なファッションショーで、私は舞台演出トップを担当した。とことんやりきった東京と台湾公演。
それを成功させて気付いたのは「頭が平面から立体に立ち上がらない。これは私ファッションには向いていない。」という致命傷なことだった。カメラマンとしては大学なんて意味のない経歴だけど、心から納得して出来ない事を知れたというのは大きな収穫だ。
部活が写真部だった私は「暗室作業好きだし、カメラマンでも目指そうかな。」とかなり行き当たりばったり、モノクロのブックを持ち、ピンクの髪に自分で縫った派手なスーツを着て面接に行き、就職氷河期に4日でカメラマン事務所に受かった。カメラ仕事の始まりは、なろうとしてなったと云うほどの理由ではない。
『大学ってのは新しい知識を得ると云うよりは、自分に何が足りないかを知れる所』なのかもしれない。とはいえ4年の遅れはやっぱり長過ぎるけれど。
最初の事務所は、力関係に巻き込まれてクビ同然にひと月で辞めた。すぐ見つかった次の事務所は、ちょくちょく有るパーティー担当で洒落たチラシを作ってFAXしたりバニーガールでもてなしたり、アシスタントとしては何も学ばなかった。けれど事務所に出入りする方に紹介してもらったのが今の私の師匠、木村直軌氏である。回り道でも運命の拾いモンも有るもんだ。
今から来て!と急に呼ばれた面接は慌てて履歴書だけ持って行き、同じ北海道出身を気にいって貰えたのか、ほぼ未経験の私は師匠に迎えてもらった。
師匠はせっかちで、流行に飛びつくのも早く飽きるのも早い、芸能や流行にまったく興味のなかった私とは正反対の人だ。そんな師匠と、一番弟子として自分で切り拓いた4年半、2人きりで1日12時間以上も過ごせばいい事も悪い事も、それはそれはここで書けるほど薄い日々ではない。
縦社会という厳しいあったかさ、プライベートなんて要らない程の濃密さ、トップタレントと窒息しそうに駆け抜けた疾走感、暇さえあれば働いていた。師匠がより良い撮影が出来るよう、被写体が気持ち良い空間を作る為にいつも工夫し最大限を尽くす事。自分の撮影も師匠の仕事も、働いてる気もなく働いていたそんな20代後半。とても優秀な弟子だったと自分で言いきれる。
入って1年ほどたった頃師匠が私に言った言葉を憶えてる。
「俺は西村に何も教えてあげれてなくて申し訳なく思う。そして今こうやって大きな仕事をやれてるのは西村のお蔭だ。二度と云わないと思うけど感謝してるよ、ありがとう。」
自分の弟子にそんな事が言えるなんて、私の師匠は最高だと思う。
私が事務所から独立する時、私が師匠に言った言葉も憶えてる。
「事務所に居た5年に失敗はもちろん有りました。けれどその時その時の最大限を師匠に尽くさなかったことは一度も無い、そう言いきれます。そう思ったら師匠に詫びる事も後悔も何一つないです。5年間ありがとうございました。」
なかなか人が残れないこの世界で、私はなるべくして芸能カメラマンになったと思う。
師匠の事務所時代に見せてもらった『忘れられない光景』は本当にたくさん有る。
想像もできない人の波と壮大さを見た炎天下の20万人ライブ、富士演習場で乗せてもらった戦車からの眺め、美瑛で最後の最後に有名な樹の前で太陽が出た雪原、凍える様な寒さの中腰まで浸かった富士五湖の朝陽、初表紙を喜び使ったレモンにウォッカ入れて師匠と乾杯した夜、海中フィルムチェンジの奄美大島の美しさ、浮浪者が怖かった夜のNYの路地、ツアーで回った全国でのスタッフとの酒、暑いスリランカの世界遺産。
もうそれは本当に切りがないほどに。
独立してからは営業をする事も無く、雑誌の表紙や写真集の仕事をたくさん頂いた。芸能人の方にお祝いされたり声を掛けてもらったりもした。
ありがたくも疑問でもあった。「なんでこんな取り柄もない私に仕事振ってくれるんだろう?芸能に興味ないのになんでタレントばかり撮ってるんだろう?」
残念ながらそんな疑問を抱えたまま30代の私はカメラマンとしては相当努力を怠った。喰えなくなっててもおかしくない位サボったのに、今カメラマンとして残って居られるのは際立っていた20代の私の努力の賜物だ。
40代に入りリスタートしてやっと調子の出て来た私に、最近起こる続けざまのトラブル。そうか、どうやらこの先をもう一度しっかり考えろ、そう言われてるのかと今一度考えている。
「なぜカメラマンをやってるんだろう?」「芸能は好きで撮ってるの?」「カメラマンって何をする人?」
ひと月考え抜いてやっと見えて来た。
私は単に『人に喜んでもらいたいだけなんだ』ということ。
そして何の取り柄もセンスも無いと思ってた私は、人を好きになる事にもの凄く長けていて、それは何よりの私の才能で。
シャッターを切るのは、私の想いを伝えるコミュニケーションだ。
その人を見つめていい所をたくさん教えて、昨日より少しだけ自分を好きになってもらえたら嬉しいからシャッターを切る。
それは家族を喜ばせたかった子供の時から、想いは変わらないんだと思う。
違うのは今の私にはその表現ツールがカメラだということ。
人の居る空気に溶け込み、安心して一緒に笑い、その空気ごと写真に収める。なんでもない様なある日の、その人らしい一瞬。
私の生きて来た環境、重ねて来た経験、人を見つめるそんな生き様自体が『カメラマン』ということ。だから売るのも私自身だ、ということ。
撮ってる時はこの世で一番その人が好きだと思える私は『ただ人が好き』を自分の仕事に出来た。
好きを仕事に、ってこういうことなのかな。
人生をいつも支えてくれた友達に心から感謝して、やっとこれから写真で返して行く。
「カメラマンって愛情を伝えて笑顔にする、私の生き方を指すんだ。」そう感じてまた新しいカメラマンの道を歩き出している、そんな今日この頃。
西村彩子 (SELF:PSY’S)
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○ 西村彩子(南43期)