六華だより(公開前確認版)

夭逝の表現者 没後100年~中原悌二郎 卒後100年~三岸好太郎

第98号

 日本の近代彫刻を牽引した彫刻家・中原悌二郎(1888年=明治21年~1921年=大正10年)、戦前のモダニズムを代表する洋画家・三岸好太郎(1903年=明治36年~1934年=昭和9年)。ともに日本の芸術史に大きな足跡を残しつつ、30代で夭逝した六華の先達だ。中原悌二郎が闘病むなしく鬼籍に入ったその年、三岸好太郎は札幌第一中学校(現・札幌南高校)を卒業し、大いなる野望を胸に東京を目指した。没後100年の悌二郎が幼少期を過ごした旭川にある中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館、卒後100年の好太郎の作品約260点を所蔵する道立三岸好太郎美術館を訪ね、その芸術の一端に触れた。(敬称略)

文・写真 六華だより編集委員
 佐藤元治(南38期)

生命の彫刻

 首だけのブロンズ像から、静かに見つめられているような感覚を覚えた。生命感というのだろうか。荒く造形された肌から、何かぬくもりのようなものが伝わってくる。「金属の塊には見えないでしょう」。中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館・齊藤眞理子学芸員の言葉に思わずうなずいた。

 平櫛田中(ひらくし・でんちゅう)像。1919年(大正8年)、31歳だった中原悌二郎が16歳年長の彫刻家、平櫛田中(1872年=明治5年~1979年=昭和54年)をモデルに造った。平櫛は、高村光雲などと並ぶ近代日本屈指の彫刻家で、特に木彫で知られる。悌二郎は、東京・谷中の平櫛のアトリエに通い、互いにモデルになって表現方法を追求した。

平櫛田中像(1919年=大正8年、ブロンズ、38cm×26cm×22cm)。中原悌二郎の絶作。未完成だが、そう感じさせない迫力を持つ

 悌二郎が生きた時代、彫刻の在り方は大きく様変わりした。「形をそっくりに造る『外形模写』ではなく、生命感と存在感が問われるようになった」(齊藤学芸員)。悌二郎は、他人に真似できない洞察力と表現力で、時代の最先端を走った。展示室の最奥にある「若きカフカス人」(1919年=大正8年)は、世界を放浪中の25歳のロシア青年をモデルにした傑作。後年、芥川龍之介が講演旅行中、旧制新潟高校(現新潟大学)でこの像に出会った。「誰かこの中原悌二郎氏のブロンズの『若者』に惚れるものはないか?この『若者』は未だに生きているぞ」(昭和2年=1927年=6月21日の記)。

若きカフカス人(1919年=大正8年、ブロンズ、42cm×18.5cm×18.5cm)。野性的とも虚無的ともいえる雰囲気を醸し出す。モデルとなったロシア人は「ナカハラは鬼を作っている」と怒り、作りかけの像を破壊しようとしたという

 だが、永遠の生命をたたえる彫刻とは対照的に、作家の生命は短かった。「若きカフカス人」に続いて「平櫛田中像」を制作途上の1919年12月に喀血。粘土が乾かぬよう、見舞いに来た平櫛に「やりかけの首(平櫛田中像)に米俵を厚くかぶせておいてくれ」と告げたものの、重い肺結核に侵された悌二郎が制作を再開することはなかった。1921年(大正10年)3月、実父、妻、平櫛らに見守られつつ、東京・日暮里の寓居で32年5カ月の生涯を終えた。美術を志して上京してから、わずか15年余りだった。

ロダンの衝撃

 釧路で生まれた中原悌二郎は1897年(明治30年)、旭川に暮らす叔父の養子となった。叔父は悌二郎の母の弟で、母が旭川を訪ねる際、自ら志願して同行し、そのまま旭川に残ったという。叔父夫妻にかわいがられた悌二郎は1902年(明治35年)、札幌南高校の前身・北海道庁立札幌中学校に入学した。当時、旧制中学校は札幌、函館、この年開校した小樽の3校に限られ、旭川からは15人受験し、悌二郎ただ1人が合格したという。しかし、六華同窓会会員名簿に悌二郎の名前はない。卒業しないまま札幌を離れたからだ。

 悌二郎の妻、信(1892年=明治25年~1954年=昭和29年)の手記「中原悌二郎の想出」には、悌二郎が語った中学時代の様子が記されている。養父は悌二郎を医師にしたかったそうだが、悌二郎自身は「教室を抜け出して山に行っては写生をしたり、写生に飽きると草の上に寝ころんで色々の空想に耽ったりした」。成績は中位程度だったが、国語作文と英作文が及第点に満たず1905年(明治38年)、2度目の3年生を経験することになる。「ただ絵ばかり描いていたくって、他の学科に対する興味はすっかり失っていった」「将来画家になろうと思った。そしてすぐにも東京に行きたいと思った」(信の手記)。

 その年の11月3日、悌二郎は天長節の式に出席せず、友人2人とともに寄宿舎から逃走した。途中、「絵師になりたい」という悌二郎の言葉を「医師に」と勘違いした親族に借金して汽車で東京へ向かった。西洋画を学ぶため、新聞配達で学費と生活費を稼ぎながらの厳しい生活だったが、つらさを微塵も見せない明るさが悌二郎の持ち前だった。

 1910年(明治43年)、彫刻の道を歩み始めた。悌二郎と並ぶ日本の近代彫刻の代表者、荻原守衛(荻原碌山、1879年=明治12年~1910年=明治43年)の若すぎる死が契機だった。中原より9歳年上。米欧遊学中に「近代彫刻の父」オーギュスト・ロダン(1840年~1917年)の「考える人」と出会って彫刻を志し、パリでロダン本人から直接教えを受けた人物だ。1908年(明治41年)に帰国。東京にアトリエを構えた。碌山の作品に感激した悌二郎は、アトリエをしばしば訪ね、ロダンの彫刻の写真を見せてもらったという。

 「ロダンの力強い熱情的な芸術は、私の心を躍らせ、全く私の心を捕へてしまった」(中原悌二郎「彫刻家になった動機及びその態度」、雑誌「人文」1916年=大正5年=10月号所収)。碌山は次々と作品を発表したが帰国から2年後の1910年4月、突然、激しく血を吐き、2日後に世を去った。享年30。その年の秋、悌二郎は「老人」で文部省美術展覧会「文展」に初入選する。

老人(1910年=明治43年、ブロンズ、57cm×35.5cm×35.5cm)。彫刻に転換して間もないころの作品。当時、東洋経済新報の記者だった片山潜は、文展を取り上げた記事の中で「気骨稜々たる(信念を曲げずに貫き通す)作者の人格の入って居ることを見る」と表現している

「これが彫刻だ」

 1912年(明治45年)、悌二郎は初めてロダンの作品を直接目にする機会を得る。「最早是は銅の塊ではない、生々しい一個の首である」と感動をつづっている。しかし、悌二郎が取り組んだのは、単なる模倣ではなかった。齊藤学芸員によると、悌二郎の作品は、ロダンよりむしろロダンを発展させた弟子といわれるアントワーヌ・ブールデル(1861年~1929年)に近いという。ブールデルといえば代表作「弓を引くヘラクレス」(1909年)で見られるように、エネルギーに満ちた肉体表現が特徴だ。

 そのブールデルは後年、弟子の日本人彫刻家が持っていた悌二郎の作品集にあった「平櫛田中像」を見て、思わずつぶやいたという。「これが彫刻だ」と。

 悌二郎は、納得するまで徹底的に制作に打ち込んだ。気に入らないと自ら破壊したため、現存する作品はわずか12点に過ぎない。だが、戦後、平櫛田中らの尽力で、悌二郎が少年時代を過ごした旭川にそのすべてが集められた。旭川市が主催する中原悌二郎賞は、日本の彫刻界では最高の栄誉とされる。その選考委員長を務めた美術評論家嘉門安雄(1913年=大正2年~2007年=平成19年)は記す。「北海道の大地の豊かさ、ぬくみを内に秘め、生命の尊さ、美しさを造形の世界に深々と歌い上げた中原悌二郎という芸術家を、郷土の先輩としてもつ旭川市民を羨ましく思うのである」(「生命の彫刻 中原悌二郎の生涯」1988年=昭和63年)

自由奔放

 札幌市中央区の知事公館の敷地の一角、北海道立三岸好太郎美術館を訪ねた。吹き抜けの展示室の作品に引き込まれた。油彩「道化役者」(150号)は1932年(昭和7年)、第2回独立美術協会展の出展作。現存する三岸好太郎の作品としては最大、縦2mを超えるキャンバスの中央に、綱渡りを見せるピエロが危うくバランスを取る。そして、線描で描かれた観客たち。落書きのようだが、なぜか表情を感じる。画家が実際に見た光景なのか、それとも再構成された心象風景なのか。

吹き抜けの展示室に飾られた「道化役者」(左から2番目)。中国・上海で見たサーカスから着想を得たという
「道化役者」を配した道立三岸好太郎美術館所蔵品展「エキゾティック・イメージ - 上海から道化へ」のリーフレット。同展は4月11日まで

 油彩「道化役者」を描く6年前、1926年(大正15年=昭和元年)、三岸好太郎は上海を訪ねた。列強の租界があった上海は当時、いわば日本から最も近いヨーロッパだった。
「曲芸、奇術、体操、槍使ひ、立派な髭を持つたライオン使ひ、象の曲芸、その中を道化が出たり入つたりする」

 三岸が後に発表した散文詩「上海の絵本」には、三岸がフランス租界で見ただろうサーカスの様子が記されている。「三岸好太郎にとってはただ1回の海外旅行でした」。津田しおり学芸員は、異国情緒を繰り返し思い出し、再構成していく中で、新たな作品を生み出していったと解説する。

 三岸は常に時代の最先端を走っていた。そして、同一人物とは思えないほど、画風を変化させていった。札幌第一中学校を卒業した1921年(大正10年)に上京、新聞配達や夜泣きそば売りをしながら絵を独学した。2年後の1923年(大正12年)、日本美術院を脱退した洋画家らが創立した春陽会の第1回展覧会で、約50倍の選考を突破し入選した。このときの入選作「檸檬持てる少女」は、フランスの画家アンリ・ルソー(1844年~1910年) から学んだ素朴派の画風と、岸田劉生の代表作「麗子微笑」(1921年、重要文化財)の構図に影響を受けたと思われるという。先の「道化役者」は、フランスの画家ジョルジュ・ルオー(1871~1958年)の影響を感じさせる。ルオーと言えば、骨太に黒く描かれた輪郭線が特徴だ。津田学芸員が教えてくれた。「同じ『花』という画題でも、具象画も抽象画もある。それもほとんど変わらない時期に描かれているのです」

恩師・林竹治郎

 三岸好太郎は1903年(明治36年)、札幌区南7条西4丁目に生まれた。豊川稲荷札幌別院の門柱脇には「洋画家・三岸好太郎生誕地」の碑が建つ。1915年(大正4年)、札幌一中に入学。当時の一中は、東北帝国大学農科大学と呼ばれた北大の隣、北10条西4丁目にあった。翌年、父が死去。住込奉公の母と別居し、下宿。おおらかで人懐っこく、仲間内では一番ダンディだったが、孤独に浸る一面もあったという。

 4年生となった1918年(大正7年)、油絵に興味を持ち一中美術部「霞会」に入部した。学業は芳しくなく、学年末にはクラス最下位となり落第してしまうが、そんな中で画家への憧れを日増しに強めていく。2回目の4年生だった1919年(大正8年)、友人に声をかけて合同展を開催。5年生となった翌年、札幌の洋画団体「北斗雅会」の公募展に出品し、中学生としてただ一人入選して周囲を驚かせたという。

三岸好太郎が札幌一中卒業直前に描いた「自画像」。津田学芸員は「何が何でも画家になる~という強い決意の顔」と解説する

 この時代の三岸に絵を指南したのが図画教師、林竹治郎だった。1898年(明治31年)から定年の1926年(大正15年)まで28年にわたり札幌一中で教えた名物教師だ。

 1871年(明治4年)、宮城県に生まれ、東京美術学校(現・東京芸術大学)で学び、本州で教職を務めたのち札幌に赴任した。初期の教え子の1人が彫刻家中原悌二郎。「絵の天分がある」と励まし、上京を後押ししたという。

 敬虔なクリスチャンで、1907年(明治40年)の第1回文展に油彩「朝の祈り」を出展。北海道からただ1人入選を果たす。顎髭のある風貌から生徒の間では「山羊さん」と呼ばれた。学校だけなく、家でも教え子たちを集め、指導した。向かいに下宿していた三岸も、家に通った1人。「技術は未熟だが絵の筋が非常によい」とほめられ、三岸の上京に際しては、反対する母親への説得役も務めた。

 美術界へ進んだ教え子は中原、三岸に限らない。中24期の俣野第四郎(1902年=明治35年~1927年=昭和2年)は中25期の三岸とともに上京し東京美術学校に進学、在学中に第2回春陽会展に入選した。中27期の久保守(1905年=明治38年~1992年=平成4年)も東京美術学校に進み、のちに東京芸術大学教授を務めた。元道立三岸好太郎美術館学芸員の佐藤由美加・北海道立旭川美術館学芸課長(南34期)は「絵画の原則をしっかりと教え、才能ある生徒を見抜き、芸術家としての成長を後押しした」と解説する。特定の師を持たなかった三岸にとっては、唯一の師と言えるかも知れない。

故郷に還る

 約半世紀前の1967年(昭和43年)、北海道で初めてとなる美術館が開館した。北海道立美術館。旧北海道立図書館で、現在は北菓楼札幌本館(札幌市中央区北1条西5丁目)として外観が保存されている。1965年(昭和40年)に札幌で開かれた三岸好太郎の回顧展の際、妻で洋画家の三岸節子(1905年=明治38年~1999年=平成11年)が遺作220点の寄贈を申し出たのが契機だった。

 好太郎は1934年(昭和9年)、旅行先の名古屋で突然吐血し4日後、息を引き取った。胃潰瘍だった。享年31歳。節子のもとには、3人の幼子と、東京・鷺宮で上棟式を終えたばかりの建設途上のアトリエの膨大な借金が残された。しかし節子は、厳しい生活の中でも創作を続け、のちに女性洋画家では初の文化功労者となった。好太郎について、夫としては「わがままで横着でエゴイスト、暴君だ」と断じつつも、その画才や天真爛漫な性格を愛し続けた。そして、好太郎の作品が散逸せず、夫の故郷で後世に伝えられることを望んだ。

 その後、道立近代美術館の開館に伴い1977年(昭和52年)、北海道立美術館は北海道立三岸好太郎美術館に改組された。特定の作家1人の作品を集める「個人美術館」で都道府県立といえば他に宮城県美術館佐藤忠良記念館、長野県信濃美術館東山魁夷館があるくらいだろうか。実際、道立三岸好太郎美術館の開館前には、「公立の施設に個人名を冠するのはいかがなものか」との質問が道の会議で出されたという。

 1983年(昭和58年)、現在地に新築移転された。建物は、死後完成した三岸好太郎のアトリエのイメージを取り入れて設計された。大きなガラス面が特徴。決して美術館として使いやすい建物ではないが、津田学芸員は「三岸だったら、この空間をどう使うだろう…。そういつも考えて、イメージを膨らませています」と次の企画に思いを巡らす。

 この稿を終えるにあたり、もう1点、触れなければならないことがある。中46期の匠秀夫(1924年=大正13年~1994年=平成6年)の存在だ。夕張出身。神奈川県立近代美術館長、茨城県立美術博物館長を歴任した美術評論家。母校の優れた先輩である中原悌二郎、三岸好太郎の存在が忘れられていくことを憂い、研究を進めるとともに、多くの展覧会を開いてきた。

 三岸好太郎美術館誕生の契機となった回顧展は、三岸研究の過程でかなりの作品の所在を確認できたことから企画された。著書「三岸好太郎 昭和洋画史への序章」(1968年=昭和43年)、「中原悌二郎」(1969年=昭和44年)は、作品はもとより、作家を直接知る関係者を丹念に取材した貴重な資料だ。その著書「三岸好太郎」のあとがきの言葉を紹介したい。

地方が誇るべき土地の文化を持とうとするエネルギーの蓄積や努力の集中に本腰が入らないのは、日本近代の政治、経済ないしは思想の状況にまで遡ってその原因を求めねばならないことと思われるが、特に本州資本の略奪的植民地の位置で開拓、拓殖の歴史を織りなしていった北海道においては、土着的なものを育てる力も、意志も、弱かったように思われる。

 
 匠秀夫がこの言葉を記して半世紀超。北海道の状況がそのときよりも着実に成長していると信じたい。

中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館

旭川市春光5条7丁目 電話0166-46-6277
https://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/sculpture/

【開催中の企画展】

中原悌二郎賞創設50周年特別展 [第Ⅱ期] 3月3日~5月9日

日本の彫刻界の最高賞とされる「中原悌二郎賞」(旭川市主催)の受賞者の作品を並べる。「抽象から具象まで、日本の彫刻の50年の歩みを感じられます」(齊藤眞理子学芸員)

北海道立三岸好太郎美術館

札幌市中央区北2条西15丁目 電話011-644-8901
http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/mkb/ 

【開催中の企画展】

 エキゾティック・イメージ - 上海から道化へ [後期] 34日~411

三岸は1926年(大正15年)912月、中国に渡り上海、蘇州、杭州を訪ねた。自身唯一の海外への旅で感じた異国情緒がどのように三岸の画風を変えたのか、道化の姿を描いた所蔵品や散文詩「上海の絵本」からひもといていく。

《赤い服の少女》が絵本になった! [後期] 34日~411

三岸が札幌に帰郷した際に描いた油彩「赤い服の少女」(1932年)のモデルは昨年92歳で死去した武藤澄江さん。三岸の画友・本間紹夫の娘で当時5歳だった。本間の曾孫でもある津田しおり学芸員が調べた制作秘話を紹介する。