六華だより(公開前確認版)

国語教師からアナウンサになった大先輩・澤村和雄さん

第96号

山田 純(南25期)


澤村和雄さん(2020年1月)

 澤村和雄さんの誕生は、1927年(昭和2年)5月2日です。現在92歳。札幌一中49期D組、私たちの大先輩です。澤村先輩の数奇な生涯を紹介します。

 お母様の実家のある名古屋で生まれ、逗子から札幌へお父様の転勤(東電から拓銀)に伴い、転居されました。師範学校附属小学校(現教育大学附属小学校)から、1941年(昭和15年)札幌第一中学校に入学しました。小学校からの同級生に太黒貴さん(フランス語教師、太黒マチルドさんの息子)がいました。一中卒業後は東京の大東文化学院(現在の大東文化大学)で学び、卒業後札幌に戻り、北星女学校中等部で6年間、国語の教員を務めました。戦前から戦後、一中国語教師で教頭も務めた横田庄八先生(南1期・横田
滋さんのお父様)は大東文化学院の卒業生でした。

 1954年HBC北海道放送(北海道最初の民放、全国的にも7番目の民放)の採用試験を受け、幼少のころからあこがれていたアナウンサになりました。1933年7歳の時に、NHKラジオ(札幌開局5周年記念番組)で本の朗読をしています。1951年開局のHBC北海道放送では最古参のアナウンサのひとりです。澤村さんが入社したころのHBCアナウンサは男女あわせても数名でした。HBC時代はインタビューアナウンサや報道記者として、活躍されました。本社札幌だけでなく、釧路や旭川、小樽の地方局でもアナウンサや記者をされ、1984年にHBCを定年退職されました。住居のある小樽で、井上内科病院のお手伝いを何年か務めました。もう時効ですが、免許もないのにレントゲン技師として70代まで勤務しました。小樽に居をかまえるきっかけは、HBC記者時代に付き合いのあった国会議員NMさんが、「澤村君、小樽に新幹線が来るぞ。土地を買っておけ」とのアドバイスだそうです。半世紀たって、小樽にやっと新幹線が来ることになりました。


1933/6/7北海タイムス(現:北海道新聞)NHK札幌 開局5周年記念番組
澤村和雄さん お話『お母サン河馬と赤チャン河馬』

 澤村さんは熱心なクリスチャンです。1947年二十歳のときのクリスマスに札幌北一条教会(朝日新聞懸賞小説「氷点」の作家、三浦綾子が1952年に洗礼を受けた教会)で小野村林蔵牧師より洗礼を受けました。今でも、毎週日曜日には、小樽より札幌北一条教会の礼拝に路線バスで欠かさず出席しています。80歳で免許返納するまでは、小樽から赤いスポーツカーで通っていました。

 また国語の教師であったこと、、また報道記者の経験から、北海道新聞に何度か寄稿しています。

 ここからは太平洋戦争末期の札幌一中(1941-45年)での思い出をいくつかご紹介します。
ひとつは雪戦会。これはさっぽろ雪まつりの前身ともいえる冬の札幌市民の娯楽のひとつ、風物でした。1月に入ると雪を固め、ブロックとして雪を背負って運び、零下10度以下の屋外で汗をかきながら二メートル以上の城を築く作業。本番の雪戦会の詳細は他の記述に譲りますが、澤村さん曰く、野蛮な競技でなく紳士的な騎馬戦の延長のような競技だったそうです。

 二つめは、これも毎年開催される全校討論会。大講堂に全校生徒を集め、六時間にわたる大ディベート大会。1942年11月全校討論会の論題は「国家をして真に偉大ならしむるには、武力に依るか、文化に依るか?」でした。52人の弁士による大弁論が続きました。これは、自分の心の中の意見ではなく、それぞれに割り当てられた立場を考えて論ずる場です。最後に全校生徒が大講堂の左右に分かれ評決を決します。なんとこの時代に「文化党優勢」との判定がわずかの差で出て、大討論会は幕を閉じました。


生徒日誌 日米開戦時

 最後にもうひとつ、一中ではグライダー部に属していました。校庭に置いたグライダーを部員十数人かで引っ張って数メートル離陸させるまで走るというものです。いかに空を舞うのは大変なことか、ということを身をもって経験できました。

 澤村さんはたいへん札幌一中を誇りに思っています。一中時代の経験や友人との思い出が今の自分の血肉となっていると語ります。私たち後輩も同じ思いでしょう。澤村和雄さんのこれからの健康と活躍を祈ってこの文を閉じます。