六華だより(公開前確認版)

各期からのたより〜南19期

第96号

 我々南19期生は昭和41(1966)に入学し、昭和44年(1969年)に卒業した。主に昭和2526年生まれの世代である。我々の前の3年間は毎年270万に及ぶ子供が生まれ、後に堺屋太一が「団塊の世代」と名付けた戦後ベビーブームの時期である。南19期生が入学した時の先輩たちは1学年20クラスであった。先輩たちのパワーは強く、我々の歩む人生の彼処(かしこ)で目標となり、時には壁となった。

 令和元年は我々南19期生が卒業から50年を迎える年になった。令和初の六華総会終了後、南19期生は札幌第一ホテルに集まった。出席者は70(女性15名、道外から20)であった(写真①)

 我々南19期生は1999年に卒業30周年記念同期会(写真②)2011年に卒業40周年記念同期会(写真③)を持った。会場は南19期の須賀秀郎君の経営する登別滝乃家である。40周年の時は30周年の倍以上の65名の参加を得た。また30周年の時は母校への贈り物として、現校舎の新築に合わせて母校の玄関ドーム下に案内板を寄贈した。

40周年の記念同期会は母校の百周年記念会館が集合場所であった。我々が2学年から入ることができた新校舎(1965年竣工)は跡形もなくなっていた。そこから滝乃家別館玉の湯へ一泊二日のバスツアーであった。入学時から数えて43年目の出会いは改めて人の縁を思わせるものだった。同期の井上隆君が卒業アルバムを余すところなくDVDに編集し、皆でそれを見ながらの語らいとなった。そのインパクトは大きく、皆を40年前にタイムスリップさせた。心が躍った。恐らく皆が何らかの形で持ち続けてきた「納得のいかなかった高校時代」(同期秋山孝二君六華同窓会副会長~六華同窓会誌1995年より)や「蟠り(わだかまり)」(同期小山内繁樹君~六華同窓会誌1995年より)を和らげたように思う。

 

 我々南19期生が卒業後集まり始めたのは、1994年の六華同窓会当番期からであった。それぞれの思い出の中の世界は意外と狭く、まさに「見知らぬ者同志」だったが、同じ空間、同じ時間を共有した事実は話を広げ、高校3年間の思いを徐々に深いものとした。

 入学時は、突然のごとく定員が前年の半分500人に減少し、学区は小学区制から大学区制に広がった。旧制中学校時代の木造校舎は古く天井が高く寒かった。新校舎の生徒玄関から入り、バラックづくりのごとき渡り廊下の冬は雪が舞う「シベリア街道」を抜け、教室に入った。卒業時は大学紛争が頂点に達し、東大と東京教育大の入試が中止となった。そのような年に映画「男はつらいよ」第一作も封切られた。

 このような思い出を再び南19期生の多くに共有させたのが、当番幹事期の集まりであった。当番幹事の集まりは、人の縁を結ぶ仕かけのようだった。

 

 井上隆君が作成した卒業アルバムのDVDは、卒業50周年記念同窓会においても放映された。我々は50年前に戻り、近況を語り、思い出を話した。熱気を帯びた同期会は、二次会、三次会とつながった。

 卒業アルバムを置いてある母校の百周年記念館の展示室は我々をタイムスリップさせる。生徒会誌の「みなみ」14(191学年の時)を開くと、特集は「南高を考える」として、「伝統と自由主義」が主なテーマであった。「みなみ」15号(192学年の時)の特集は「高校生の世界」であり、研究1は「歪められた認識と民主主義を育てる生徒会」、研究2は「教育と政治」であった。大きく時代が変わって行くことを敏感に感じ取っていた我々南19期生にはそのような時代があり、卒業50年を経て、一つの歴史を持ったように思う。

六華の同窓の皆様に深く感謝し、生徒会誌「みなみ」15号に掲載のゲーテの「勇気」という詩で、「南19期からのたより」本文を終わりとしたい。

「 勇 気 」

心配せずに氷面を越えて走れ

お前より先の最も大胆な冒険者によって

拓かれた滑走路を自ら拓け

静かにせよ!恋人、わが友よ!

たといみしみしいっても、氷は割れはしない

たとい割れても、おれとお前の間は割れはしない

 

                        (文責 19期同期会幹事)